ルカ14:7-14
へりくだる者は高められる
今日の朗読は先週読まれた箇所の続きです。それはある安息日の出来事です。会堂における安息日の礼拝の後、ファリサイ派のある議員がイエスを食事に招きました。今日でもユダヤ人の間で行われている安息日の食事です。彼が家に招いたのは、どうも安息日に癒しを行うかどうかイエスを試すためであったようです。それゆえ、そこにはイエスだけでなく、他のファリサイ派仲間や律法の専門家たちも招かれていました。恐らくはユダヤ人社会において指導的な立場にある有力者たちでしょう。常々上席に座っている人たちなのだろうと思います。そこで今日の箇所には「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」(7節)と書かれています。それが今日お読みしましたイエス様の御言葉です。
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」(8‐10節)。
イエス様が言っておられることは、なるほどもっともな話です。しかし、彼らが上席を争っていたとしても、たかが食事の席の話ではないか、とも思えます。何もイエス様があえて食事の場で戒めることでもないでしょうに。実際、そんなことは昔から言われてきたことでもあるのです。旧約聖書の箴言にも、「高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい」(箴言25:7)と書かれている。彼らも皆、知っていることです。
にもかかわらず、イエス様があえて彼らにこの話をなさったのは、「たかが食事の席の話」に留まらないからなのです。イエス様は「彼らにたとえを話された」とあります。「たとえ話」なのであって、ただの食事の話ではありません。イエス様が招かれたのは安息日の食事です。しかし、そこで「婚宴に招待されたら」という話をされたのです。遠回しにあてつけたのではありません。あくまでも「たとえ話」です。
ことさらに「婚宴」あるいは「祝宴」と訳しても良いのですが、そのような「祝いの宴」のたとえ話をしたのは、旧約聖書の時代から、「祝宴」は神の国における最終的な救いのたとえとして用いられてきたからです。つまりイエス様はここで単なる謙遜の勧めをしているのではなく、「神の国」の話をしているのです。
上席を選ぶ彼らの姿。それは単に食事の席の話に限ったことではありませんでした。それは神の国、神の救いに対する彼らの態度でもあったのです。彼らが上席を選んでいたのはなぜですか。自分こそ上席にふさわしいと考えていたからでしょう。自分こそ招待されるべき人間だと思っていたからでしょう。そのような思いは神の国についても同じだったのです。自分こそ神の国の祝宴に招かれるべき人間だ。自分こそ神の国の上席にふさわしい人間だ、と。
ですから、今日の聖書箇所の直後には、招待客のこんな言葉が記されているのです。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。当然、神の国で食事をする幸いな人の中に自分は入っているのです。 そのような人たちに、いや、そのような人たちだからこそ、イエス様はあえて「婚宴」のたとえ話をされたのです。神の国の話をされたのです。そして、こう締めくくったのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)。
このように、これは一般的な意味における謙遜の勧めではありません。繰り返しますが、これは神の国の話です。「高ぶる者」「へりくだる者」についても、これは神との関係における話です。実は、この「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、18章においてほとんど同じ形でもう一度出て来ます。そこに至りますとイエス様の意味していることがより明確に現れておりますので、そこも読んでおきましょう。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」(18:9‐14)。
ここに出て来るファリサイ派の人は、明らかに人と人との比較の世界に生きていました。それこそ「上席」「末席」の世界に生きているのです。しかし、この徴税人は違いました。人と比較して自らを語っているのではありません。神の御前において自分を正直に認めて、憐れみを乞うているのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。イエス様が「へりくだる者」と言っているのは、そのような人間の姿です。そのような意味において「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主は言われたのです。
お返しができない人の祝宴
そしてさらに、イエス様は自分を招いてくれた議員に対しても次のように語られました。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(12‐14節)。
これを聞いた議員はどう思ったでしょうか。上席を選ぶような人々しか招かなかった自分に対する批判と受け取って、不愉快に思ったかもしれません。しかし、彼がファリサイ派であるならば、イエス様の語られた内容そのものには反対しなかったと思います。ファリサイ派の人たちの大切にしている善行の中には「施し」も含まれているのです。ですから、イエス様の話は多少極端に聞こえたかもしれませんが、「貧しい人を招きなさい」という教えには同意したと思います。
さらに言うならば、イエス様の言っておられるのは要するに「お返しができない人を招きなさい」ということです。言い換えるならば「人からの報いを求めるな」ということです。なぜか。本当の報いは最終的に神から来るからです。「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とはそういうことです。ファリサイ派の人たちは死んで終わりだとは思っていない人たちです。その点においてサドカイ派の人たちとは異なります。彼らは神の国を信じています。神の国における報いをも信じているのです。
ですから「報いは神の国において」という教えには喜んで同意したと思うのです。だから、これを聞いて客の一人は言ったのです。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう!」これを言った人も恐らくファリサイ派の人です。彼はイエス様の話を聞いて、神の国における神からの報いを思ってこう言ったのです。
しかし、先ほど申しましたとおり、それこそまさに「上席を選ぶ者」の聞き方なのです。自分こそ神の国の祝宴に招かれるべき人間だ。自分こそ神の国の上席にふさわしい人間だ。これだけの施しもしてきましたから。人からの報いを求めずに善い行いをしてきましたから。だから当然、神の国において、神からの報いを受けるはずですよね。正しい者たちが復活するとき、私たちは報われますよね、と。――このように、人からの報いを求めない善き行いさえも、簡単に人を高ぶらせる要因となってしまうものなのです。
それゆえに、このようなイエス様の勧めは、注意して聞かなくてはなりません。繰り返しますが、宴会の話をもって、イエス様は神の国の話をしておられるのです。なぜお返しができない人を招くのか。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、お返しができない人たちが招かれた宴会こそが、神の国のひな形となるからなのです。神の国とはどのようなものなのか。神の招きとはどのようなものなのか。それを指し示すような宴会となるからなのです。
神の国にはお返しができない人が招かれるのです。そうです。神はお返しができない人を招かれるのです。そのことを、上席を取り合っていた招待客たちは知らなくてはならなかった。自分たちこそ神の国にふさわしいと思っていたファリサイ派の人たちは知らなくてはならなかったのです。
お返しができない人の招かれた宴会。その意味するところは、あのファリサイ派のところではなく徴税人のところに身を置いてこそはっきりと見えてきます。自分と他者を比較して、他の人の姿をさげすんで、見下しているところではなく、自ら胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るところに身を置いてこそ見えてくるのです。
そこから、お返しができない人たちの招かれた宴会を見るならば、そこに何が見えてくるでしょう。招かれても全くお返しができない貧しい人、ただただ感謝して御厚意を受け取ることしかできない人。それはまさしく神の御前における私の姿ではないか、ということです。
実際、イエス・キリストによって救われるというのはそういうことでしょう。私たちが既に神によって受け入れられ、神の国に招かれているとは、そういうことではありませんか。「罪人のわたしを憐れんでください」としか祈ることのできない私たちが、そんな私たちが憐れみを受け、罪を赦され、義とされ、主の食卓に招かれる。それはまさに、お返しができない貧しい人が招かれるということではありませんか。やがて神の国において、私たちはその事実に驚くことになるでしょう。まったくふさわしくない、全くお返しのできないような私たちを神は招いてくださった。その恵みの大きさを目の当たりにして愕然とすることでしょう。
そのことを思う時、改めて、人から報いを求める必要などないのだ、ということが少しずつでも分かってきます。そう、すべてが完全に報われているからです。こんな自分が神の国に招かれていたという一事をもって、完全に報われているのです。「あなたは報われる」とイエス様の言われたように。そうです。誰から報いを受けずとも、本当は既に幸いなのです。
(祈り)