2019年8月18日日曜日

「必要なことはただ一つ」

ルカ10:38‐42

何ともお思いになりませんか
 イエス様とその一行は宣教の旅の途上にありました。今日の聖書箇所は、エルサレムへと向かう旅の途上における出来事を伝えています。「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」(38節)と書かれていました。イエス様がその村を訪れるのは、初めてのことではありません。そこにはイエス様が御言葉を宣べ伝えるために場所を提供してくれる、一つの家がありました。マリアとマルタという姉妹が住んでいる家でした。

 「するとマルタという女が、イエスを家に迎え入れた」(38節)と書かれています。もちろん、迎えたのはイエス様だけではありません。弟子たちが同行しています。必ずしも十二人だけではありません。この章の始めには、72人の弟子たちについて語られています。弟子と呼ばれる人たちは大勢いたのです。またイエス様が来られれば、御言葉を聞くために集まってくる人たちも迎えることになります。ですから、イエス様を家に迎え入れるということは、実はとても大変なことなのです。食事の支度から宿泊の準備まで、為さねばならぬことは山ほどあったに違いありません。とにかく、人々に仕え、彼らの多くの必要を満たさなくてはならないのです。

 しかし、マルタにとって、そこにいた多くの人々に仕えることは、イエス様に仕えることに他なりませんでした。人々の必要を満たすことは、すなわちイエス様の必要を満たすことでした。そして、イエス様に仕え、イエス様の必要を満たすために奉仕することは、マルタにとって何よりも大きな喜びであったに違いありません。その意味において、マルタは「イエスを家に迎え入れた」のです。恐らく何日も前から準備をしてきたのでしょう。輝いた笑顔。讃美の歌声。イエス様を迎えるために喜びに溢れていそいそと立ち働いているマルタの姿が目に見えるようです。

 さて、そのように「イエスを家に迎え入れた」マルタだったのですが、その心の中に、やがて一つの変化が生じてきます。主の足もとに座って、その話に聞き入っているマリアのことが気になり始めます。人々の必要を満たすために為さねばならないことが山ほどあるのに、まったく無頓着なマリアがそこにいるのです。主に仕える働きを人に押しつけて平気な顔をしているマリアがそこにいるのです。ついにマルタはイエス様に訴えました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。

 しかし、おかしいと思いませんか?――手伝おうとしないマリアの態度が問題であるならば、マリアの耳をひっぱって部屋の外に連れて行き、「ちょっとは手伝いなさいよ!」言えば済むことであるはずです。ところが、マルタはそうしませんでした。

 確かにマリアの態度は不愉快です。しかし、本当に物申したい相手は、マリアではなくてイエス様だったのでしょう。マルタは言いました。「何ともお思いになりませんか。」――マルタはイエス様に《何かを思って》欲しかったようです。原文では、マルタがここで用いているのは「気に懸ける」という意味の言葉です。マルタは気に懸けて欲しかったのです。何を?マリアが「わたしだけ」にもてなしをさせていること。「わたしだけ」――そう、「わたしだけ」が大変な思いをしている。この「わたしだけ」という事態を、イエス様にも少しは気に懸けて欲しかったのです。

 マルタだけが大変な思いをしている時に、イエス様は人々に話をしておられました。当然のことながら、イエス様の視線は、聴衆に向けられています。そのイエス様の視線の先に、足もとで話を聞いているマリアもまたいるのです。一方、一人で立ち働いているマルタは、イエス様の視界の外にいるのです。それはマルタにとって、とても悲しいことだったに違いないし、また、腹立たしいことであったに違いありません。「わたしだけ」が大変な思いをしているのに、イエス様はぜんぜん気に懸けてくれない!

マルタ、マルタ
 そんなマルタの訴えを聞いて、主は静かに口を開かれました。「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない』」(41‐42節)。

 「マルタ、マルタ」。印象的なのは、主がマルタの名前を繰り返すこの呼びかけです。同じように繰り返して名前を呼ばれる人が、この後、22章にも出て来ます。シモン・ペトロです。

 イエス様が十字架にかかられる日の前夜、最後の晩餐の席において、イエス様はシモン・ペトロにこう言われます。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22・31‐32)。

 これはシモン・ペトロがやがてイエス様を見捨てて逃げていくことを予告した言葉です。弟子たちは皆、襲い来る試練の中で主を見捨てて散って行きます。ペトロもまた、主の弟子であることを三回も否定するであろうことを、イエス様はご存じでした。しかし、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と主は言われます。ペトロのために、主はペトロの知らないところで、祈っておられたのです。イエス様はペトロのことを心底気に懸けておられたのです。そんなイエス様の思いが表れているのが、イエス様の呼びかけです。「シモン、シモン」――主は、そうペトロに呼びかけられた。主はペトロのことを気に懸けておられたのです。

 ちなみに、ルカによる福音書に続く第二巻目、使徒言行録まで行きますと、同じように呼びかけられている人がもう一人出て来ます。サウロ、またの名をパウロという人です。かつて教会の迫害者であった人です。そのサウロがダマスコに向かう途中、光に照らされ、「サウル、サウル」と呼びかけるイエス様のみ声を聞いたのでした。パウロ自身の証によるならば、そこでイエス様は彼にこう言われたそうです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(使徒26:14)。イエス様は迫害される教会だけでなく、迫害者であるサウロ自身のことをも気に懸けておられたのです。

 「マルタ、マルタ」――。主はそう呼ばれました。今日お読みした聖書箇所において、イエス様が一番気に懸けておられるのは、他ならぬマルタなのでしょう。マルタはイエス様の視界に入っていなかったでしょうか。イエス様は見ていなかったのでしょうか。気に懸けていなかったのでしょうか――とんでもない!イエス様はマルタが「多くのことに思い悩み、心を乱している」ことをちゃんと見ておられました。そんなマルタの心の状態を誰よりも心配し、気に懸けておられたのはイエス様だったのです。

必要なことはただ一つ
 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」。主はそう言われました。「必要なことはただ一つ」――それは誰にとって「必要なこと」なのでしょうか。「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と主は言われました。「それを取り上げてはならない」のは、それが《マリアにとって》必要だからです。そして、それは《マルタにとって》必要なただ一つのことでもあったはずです。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」。

 マルタの関心は、「多くのこと」に向かっていました。それはイエス様にとって必要と思われる「多くのこと」であり、人々にとって必要な「多くのこと」でした。その多くの必要を満たすために、彼女は汲々としていました。「多くのこと」に向かう彼女の心は散り散りになっていました。しかし、そんなマルタにイエス様は「必要なことはただ一つ」と言われました。イエス様にとって必要なことでも、人々にとって必要なことでもありません。《マルタにとって》必要な一つのことでした。

 マルタが一生懸命もてなしをしていたこと自体が責められているわけではありません。それは良いことなのです。他者の必要を満たすために身を粉にして働くことは悪いことではありません。それは良いことですし、必要なことでもあります。誰かが行わなくてはなりません。働く人は必要なのです。しかし、そのように働く《マルタにとって》必要なことがありました。それは、マリアからだけでなく、マルタからも取り上げられてはならない一つのことなのでした。その一つのこととは何でしょうか。

 最初に申し上げたように、主は宣教の旅の途上にありました。それはエルサレムへと向かう旅でした。先週朗読された聖書箇所にはこう書かれていました。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9:51)。この地上における残された時の短いことをイエス様はご存知でした。向かうエルサレムで何が待ち受けているのか、イエス様はご存知でした。御自分が十字架につけられることになることをご存知の上で、主はエルサレムへと向かっておられたのです。それは御自分の命をもって、この世に救いをもたらすためでした。

 そのイエス様が来てくださって、救いの言葉を語っていてくださるのです。その御言葉を受け取るということは、命を与えるほどに愛してくださったイエス様の愛を受け取ることに他ならないのでしょう。それはマリアにとって必要なことでした。いや、究極においては、マリアが人生において必要としているのはそのことだけとも言えるのでしょう。「必要なことはただ一つ」。だからマリアから取り上げてはならないのです。そして、それはまたマルタにとっても必要なただ一つのことなのです。

 受けることなくしては、与えることはできません。涸れ井戸から一生懸命に水を汲み出せば、泥水をまき散らすことになります。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」しかし、そんなマルタが、今、イエス様の前にいるのです。「マルタ、マルタ」と呼びかけてくださる御方と、こうして向き合って、そこに身を置いているのです。

 この小さな物語を改めて読みますと、ここにはイエス様が人々に語った言葉は何一つ記されていないことに気付きます。足もとに座っていたマリアが聞いた言葉すら記されていません。ただマルタに語りかけられた言葉だけが書き残されているのです。

 イエス様に苛立ちながら訴えたマルタは、結果として静かにイエス様と向き合い、イエス様に愛されている人として、その語りかけを聞くことになりました。主は確かにマルタを心に懸け、マルタが必要なただ一つを失わないでいることを望んでおられました。そして主は、私たちにもそのことを望んでおられるのです。
(祈り)

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