人の子には枕する所もない
「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人がいた」(57節)。
マタイによる福音書によりますと、この人は律法学者であったようです(マタイ8:19)。罪人や徴税人と共に食事をし、罪深い女に罪の赦しを宣言するイエスに従うことを公に表明した律法学者がいたこと自体驚きです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と彼が口にするまでには、その背後に並々ならぬ決意があったに違いありません。
真剣に主に従おうとする人に対して、主も真剣に向き合われます。イエス様は彼に安易な招きの言葉をかけられませんでした。「イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない』」(58節)。この言葉をもって主は、「あなたはどこへでも従って行くと言うけれど、その言葉が意味することが分かるか」と問い返しておられるのです。
「枕する所」――それは安息の場です。イエス様には、この地上に安息の場はありませんでした。そのことはイエス様御自身が一番良くご存じだったのです。それは51節以下に書かれている象徴的な出来事の中にもよく現れています。
エルサレムに向かう途中、イエス様とその一行はサマリヤ人の村に宿りを得ようとしました。しかし、村人たちはイエスを歓迎しなかったのです。イエス様も弟子たちも、そこに安息の場所を得ることはできませんでした。そこで弟子たちは腹を立てました。人々から拒絶されたことに腹を立てました。安らぎの場所を得られなかったことに腹を立てました。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」これがヤコブとヨハネの言葉でした。しかし、主は振り向いて二人を戒められました。イエス様にとっては、拒絶され、宿を得ることができず、安息を得なかったことは、何ら腹を立てるべきことでも、驚くべきことでもなかったのです。この地上に安息の場はない。そのことを主はよく知っておられたのです。
実際、そのようなキリストの歩みは、既に誕生の時から始まっていたと言えます。この福音書だけが伝えているイエス様の誕生の場面を皆さんもよくご存じでしょう。主は産まれた時、飼い葉桶に寝かされたのでした。ページェントに見るような美しい場面ではありません。聖書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(2:7)と書かれているのです。イエス様はこの世に場所を持たない方として、その人生をスタートしたのでした。
そして今、天に上げられる時期が近づいたことを知り、エルサレムに向かう決意を固められたイエス様は、最後までこの地上に安息の場を持つことはないことを知っておられたのです。そして、事実そうであったことをルカによる福音書は伝えているのです。
やがてエルサレムにおいて主は捕らえられ、十字架にかけられることになります。その十字架の上における最後の言葉を、この福音書はこのように伝えているのです。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』」(23:46)。主が口にされたこの言葉は、ユダヤ人の間においては何ら特別な言葉ではなく、ごく普通の就寝の祈りの言葉でした。いわば神に語りかける「おやすみなさい」です。主は十字架の上で「おやすみなさい」と言われたのです。イエス様はついに枕する場所を得たのでした。しかし、それは十字架の上だったのです。それが地上から上げられたところであったのは実に象徴的です。地の上における生活の中には、最後まで本当の意味で枕するところはなかったということです。
「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と彼は言いました。しかし、イエス様に従うということは、地上に安息の場を得なかった方に従って行くことを意味するのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」実際、その御方に従っていくならば、この人もまた律法学者として持っていた安息の場を、彼は失うことになるのでしょう。
しかし、それでもなお安息の場を持たなかったこの御方に従って行くとするならば、それはこの御方のもとにこそ救いがあるからです。確かにイエス様はこの地上に枕する所を持ちませんでした。安息の場を持ちませんでした。しかし、もう一方においてイエス様は常に安息の場を持っていた方でもあるのです。主の唯一の安息の場は、この地上のどこかにある「枕する所」ではなく、父なる神のもとにこそありました。どこにいても絶えることのなかった父なる神との交わりの中にこそあったのです。
だからこそ、十字架の上においてさえ、主は安心して「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言うことができたのです。十字架の上においてさえ、神に向かって「おやすみなさい」と言えたのです。イエス様に従うということは、そのように変わることのない父なる神の内にこそ「枕する所」を持っていた御方に従うことを意味するのです。死においてさえ、その安息の場を失うことのなかったイエス様に従うのです。
私たちは主と同じように、目に見えない永遠なる神との交わりの中で共に生きるのです。最終的に私たちもまた「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言える、そのような父との交わりの中にあって共に生きるのです。実際、そのように生き、そして死んでいった多くの仲間を私たちは知っているではありませんか。そして、私たちもまた彼らと共に、神の支配のもとにこそ、神の国にこそ、本当の意味で「枕する所」、すなわち全き救いと安息が備えられていることを信じる者として生きていくのです。
そのような人生へと主が招いてくださいました。主が「わたしに従いなさい」と声をかけてくださいました。私たちがここに集められているとは、そういうことです。これは大きな恵みです。しかし、私たちはそこでさらに聞くべき言葉があるのです。主が何と言っておられるか、共に耳を傾けましょう。
後ろを振り返らずに
59節以下をお読みいたします。「そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい』」(59‐60節)。
イエス様はその人に「わたしに従いなさい」と言われました。その人もまた主に従うことを決意していたのでしょう。そこで彼は、「まず、父を葬りに行かせてください」と願ったのです。父親が亡くなって間もなくのことだったのでしょう。ユダヤ人にとりまして、葬儀を丁重に行うことは、すべてに優先される宗教的義務でした。そのためには安息日の規定さえも免除されたと言われます。父の葬儀に関して息子が義務を果たすのは当然のことです。この人の願いは私たちにも十分理解できます。
しかし、主は彼に言われたのです。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。もちろん、文字通りの意味ではないでしょう。「死んでいる者たち」が何を意味するのかは良く分かりません。しかし、それが誰であれ、要するに葬儀のことは他の人にまかせよ、と言っておられるのです。
理不尽な言葉でしょうか。しかし、考えてみれば、確かに、葬儀のことを他の人々に任せるということは、絶対に不可能なことではありません。誰かが代わりに行うことは可能です。一方、「わたしに従いなさい」という主の招きに応えることは、本人にしかできないことです。他の人が代わりに信じたり従ったりすることはできないのです。一人の人生の方向を決定する一歩は、あくまでも本人が踏み出さなくてはなりません。そして、それが救いに関わることであるならば、永遠なる神との関係に関わっていることならばなおさらです。
さらにもう一人の人に主が語られた御言葉に耳を傾けましょう。61節以下を御覧ください。「また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた」(61‐62節)。
実は、たいへん良く似た場面が旧約聖書に出てきます。今日の第一朗読において読まれました、預言者エリヤがエリシャを後継者として召し出す場面です。預言者エリヤは、畑を耕していたエリシャに出会うと、彼に自分の外套を投げかけました。これは預言者が自分の後継者を指名する仕草です。「私に従ってきなさい。私の後継者になって私の働きを継承しなさい」ということです。すると、エリシャはエリヤの後を追ってこう言いました。「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」(列王記上19:20)。その時、エリヤは「行ってきなさい」と言ってそのことを許可したのです。その後、エリシャは一軛の牛を屠って料理し、人々に振る舞って食べさせます。そして、「それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた」(同19:21)と書かれています。
エリシャは、家族にいとまごいをすることが許されました。しかし、今日の箇所に出てきたその人は、「まず家族にいとまごいに行かせてください」という言葉を退けられました。厳しい。あまりにも厳しい。そう思います。しかし、あえてイエス様がここまで言われたのは、この人についてよくご存じであったからでしょう。他の人はどうであるか分かりません。しかし、《その人にとっては》、家族のもとに行き、家族と顔を合わせ、主に従うことを先延ばしにすることが、まさに「鋤に手をかけてから後ろを顧みる」ことになってしまうからでしょう。そのことが分かっていたからこそ、主はその求めを退けられたのです。
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」――鋤とはこの場合、牛につけて畑を耕す道具です。鋤に手をかけ牛が動きはじめてから後ろを振り返るならば、耕してできる畝が曲がってしまうのです。後ろをちょっと見ること、それは小さなことのように思えるかもしれません。しかし、実際に曲がってしまった畝を元に戻すのは容易なことではありません。
「まず家族にいとまごいに行かせてください」という求めに対して語られた、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」という主の言葉は、確かに極端に厳しい言葉に思えます。しかし、それだけにまた、私たちの心に切り込んで、大事なことを思い起こさせてくれる言葉でもあるのです。
「家族へのいとまごい」云々については、ここにいる私たちには直接当てはまらないかもしれません。しかし、確かに私たちにも、振り返ってはならないことはあるのでしょう。後戻りしてはならないことはあるのでしょう。先延ばしにしてはならないことはあるのでしょう。確かに、ちょっとした小さなこと、これくらいのこと、と思えることが、キリストに従う道から、信仰の道から私たちを大きく引き離してしまうということがあるのです。
ならばなおさら、今、ここにおいて再び「わたしに従いなさい」と主によって招かれていることは、恵みなのであり、恵み以外の何ものでもありません。もう後戻りしてはなりません。まっすぐに前を向いて、キリストに導かれながら、神の国における救いの完成を目指して、信仰の道を歩んでいきたいと思うのです。
(祈り)