ルカ9:18‐27
あなたは神のメシアです
「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」(18節)。
そのように尋ねられた弟子たちが置かれていた状況は、この直前に書かれている出来事から伺い知ることができます。そこには、五つのパンと二匹の魚で多くの群衆を養われたイエス様の奇跡物語が伝えられています。五千人ほどにもなる大群衆がそこにいたのです。旅を続けるイエス様と弟子たちを取り巻く人の群れは、次第に巨大化していったことが分かります。
そのような大群衆にイエス様が関わるには、当然のことながら弟子たちの働きが必要となります。この直前の場面においても、次のように書かれています。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」(16節)。それだけの群衆をグループにして座らせ、彼らの間を駆け回ってパンと魚を配るということは、それ自体かなりの重労働であったに違いありません。弟子たちはくたくたに疲れたと思います。
しかし、それでもパンを渡せば感謝の言葉が返ってきます。そこには人々の笑顔が溢れています。どんな労苦があったとしても、人々に喜ばれ、感謝され、賞賛される働きのための労苦であるならば、そこには喜びが伴います。
弟子たちは、そのように急速に拡大し、これからも限りない発展を見るであろうイエス様の宣教活動について、そして、やがて実現するメシアの王国について、喜びをもって語り合っていたに違いありません。それと共に、夥しい群衆と関わるイエスの弟子として、自分たちが果たすべき役割について、いよいよ真剣に考えざるを得なくなっていたはずです。
そのような彼らに、イエス様が尋ねられたのです。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」。弟子たちはイエス様の問いに、すぐに答えることができました。群衆の大勢を占めている一般的見解を、弟子たちはイエス様に次のように伝えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」(19節)。
そこでさらに主は弟子たちに問われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」すぐさまペトロは答えました。「神からのメシアです」(20節)。ペトロの答えに異論を唱える者はいませんでした。この答えこそが弟子たちの統一見解だったことがわかります。
ペトロの答えは、群衆と自分たちとの間に、はっきりと一線を引いていたことを示しています。「私たちは彼らと同じことは言いません。あなたは神からのメシアです」――この御方こそイスラエルが待ち望んできたメシア、油注がれた王、救いをもたらすために神のもとから来られた御方である。その点において彼らは一致していたのです。そこに彼らの自負があったとも言えます。彼らにとって巨大化する群衆は、いまだにイエスという御方を十分に理解していない人々であって、これから真理を教えられ、目が開かれなくてはならない人々だったのです。
誰にも話してはならない
ところが、イエス様は弟子たちに対して、実に意外なことを語り始めたのでした。「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている』」(21‐22節)。
イエスが神のメシアであることを誰にも話してはならない。主はそうお命じになりました。それはなぜでしょう。それは主が言われるように、彼らがまだ決定的に重要なことを、その目で見てはいないからです。彼らは、イエス様が人々から捨てられ、苦しみを受け、殺されてしまうことを、見なくてはならないのです。そして、十字架の先に復活があることを見なくてはならないのです。彼らはまだメシアの本当の姿をまだ見てはいないのです。それゆえに、まだ語ってはならないのです。
主が語られたのは彼らにとって実に衝撃的な言葉であったとも言えます。イエス様の言葉は、拡大しつつある宣教活動の延長上にメシアの王国があるのではないということを意味したからです。メシアは、人々から喜ばれ、賞賛され、感謝され、迎えられて王座に着かれるのではないのです。そうではなくて、イエスは人々から憎まれて、殺されるのです。十字架にかけられて殺されるのです。主はそう言われたのです。それがメシアであるということだ、と。
それはすべてが一度、無に帰することになることを意味しました。そして、その先にこそ復活があるのです。「三日目に復活することになっている」と主は言われました。この訳は厳密には正しくありません。「三日目に《復活させられる》ことになっている」と書かれているのです。受け身です。自分で復活するのではありません。復活は父なる神によるのです。
キリストが死んですべてが無に帰した時、キリストは神によって復活させられるのです。その時に無に帰したかのように見えたイエス様の御業のすべてが、神によって生きるのです。十字架の死でさえも、罪の贖いとして、この世の救いとなるのです。メシアは彼を賞賛する人々によって復活させられるのではありません。神によって復活させられるのです。そのように主は御自身について語られたのです。
弟子たちはイエス様について「神からのメシアです」と告白しました。しかし、彼らが本当に人々にそのことを語り得るためには、まずメシアがそのような《苦難のメシア》であることを理解しなくてはなりませんでした。メシアに従うということは、苦難のメシアに従うことなのです。
苦難のメシアに従うのであるならば、それは単に人々から喜ばれ、感謝され、賞賛されることのために労苦することではあり得ません。単に自分の理想を実現することでも、民族や国家の理想を実現することでもあり得ません。そのような労苦なら、弟子たちはもともと喜んで引き受けるつもりでいたのです。しかし、そのような労苦ではないのです。
苦難のメシアに従うならば、むしろ誰からも顧みられないような労苦、感謝されるのではくむしろ憎まれ排斥されることになる労苦を負うことにもなる。目に見える豊かな結果を生むよりは、むしろ虚しく費えていくような労苦、まったく無駄に終わったように見える労苦、そのような労苦の中に身を置くことにもなるのです。
自分の十字架を背負って
それゆえに、主はさらにこう続けられたのでした。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)と。十字架を背負うとはどういうことですか。十字架刑に処せられる者がその十字架を背負って歩いても、誰も感謝してはくれません。そこには目に見える報いはありません。あろうはずがありません。それは意味のない労苦、報いのない労苦の最たるものでしょう。報いのある労苦ならば信仰によらずとも為しえます。しかし、苦難のメシアに従うことは、信仰なくしては為しえないことなのです。十字架にかかられたイエスを復活させられた天の父を信じることなくして、為し得ないことなのです。
主はさらに言われました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(24節)。「わたしのために命を失う者」という言葉は、明らかに、主を信じる者が受ける迫害や信仰告白のゆえの殉教を念頭に置いた言葉です。ですから「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」ということも語られているのです。つまりそれでもなお信仰を言い表すのか否かが問われているのです。
しかし、そのように殉教を念頭に置いた言葉ではありますが、イエス様がその前に「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言っておられるように、それは最終的に迫害の中で信仰を言い表して命を落とすかどうかということに限られているわけではないのです。それはまた「日々」のことに関わっているのです。
実際、迫害の時代であるならば、どんなに愛を現してもそれに対して敵意が返ってくるという「日々」があるのでしょう。イエス様は弟子たちを待っているそのような「日々」を思い描きながら語っているとも言えます。
そして、迫害の時代でなくても、いつの時代であっても、イエス様の御心に従って、人を愛し、受け入れて生きようとするならば、誰であってもそこには引き受けなくてはならない労苦があるのでしょう。自分に都合の悪い人を自分の人生から切り捨てながら生きるのではなく、隣人として共に生きていこうとするならば、それこそ負わなくてもいいような苦労を、しかも感謝もされないような労苦を、あえて背負うようなことにだってなるのでしょう。
そのような報われない労苦を負い、報われない苦しみを引き受けるということは、人生のある部分を失うということではありませんか。ある意味では「命を失う」ということなのでしょう。失うことはいやなことです。怖いことでもあります。しかし、そのように思っている私たちに、イエス様は言われるのです。本当は何も失ってはいないのだよ、と。むしろそのようにして命を得るのだ、その命を救うのだ、と主は言われるのです。実際に文字通り十字架を背負って、そしてその十字架にかかられた御方、――そして永遠の命に復活した御方がそう言われるのです。命を失って命を得る。主はその事実を見せてくださったのです。その御方が言われるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。
キリストの祈り
もちろん、そのように語られながらも、イエス様は弟子たちの弱さを知らなかったわけではありません。ペトロも転び、他の弟子たちも転び、逃げ出してしまうことをもご存じでした。そうです。だからこそイエス様は祈っておられたのです。今日の福音書朗読はこのような言葉で始まっていましたでしょう。「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」。 弟子たちと共におられたイエス様は、たったひとりで祈っておられたのです。この福音書は繰り返し、ひとりで祈っておられるイエス様の姿を伝えています。この時もそうでした。主はひとりでひたすら祈られた上で、これらのことを語られたのです。
今日の場面で弟子たちを代表して胸を張って「あなたは神からのメシアです」と信仰を言い表したのはペトロでした。しかし、そのペトロに対して、イエス様は後にこう語られます。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:31‐32)。
十字架に向かっておられたイエス様は、たったひとりで祈っておられた。そして、その心の内には苦難のメシアに従うことになる弟子たちがいたのです。さらに言うならば、後の教会もその心の内にいたのです。すなわち、ここにいる私たちもまた同じです。ペトロは、そして弟子たちは、イエス様の祈りに支えられて、復活の主に従っていきました。私たちもイエス様の愛と祈りに支えられて、イエス様についていくのです。日々、自分の十字架を背負って、そしてイエス様が示してくださったまことの命に向かって、イエス様についていくのです。
(祈り)