使徒言行録3:1‐10
置かれていた人
今日の第二朗読で読まれました聖書の箇所には「生まれながら足の不自由な男」が出て来ました。4章22節によりますと既に四十歳を過ぎていたようです。生まれながら足が不自由であったこの人は、二重の意味において非常に厳しい状況に置かれていたと想像されます。第一に、彼は通常の仕事に就けなかった。それゆえ、彼は物乞いをして生活せざるを得ませんでした。ここに書かれているとおりです。
しかし、それだけではありません。当時のユダヤ人社会においては、生まれつき体が不自由であると、「彼が罪を犯したからか、それとも両親が罪を犯したからか」というようなことを言われるのです。この足の不自由な人も、今までどれだけそのような冷たい言葉を耳にしてきたか知れません。人々が彼を神から呪われた者として語るならば、恐らく彼自身もまたそのように思っていたことでしょう。
そのような人が、「美しい門」と呼ばれる神殿の門の側に「置いてもらっていた」のです。これは、直訳すると、「彼ら(人々)は置いた」という言葉です。まるで荷物か何かのように、「運ばれて」、「置かれていた」と表現されているのです。「美しい門」と言われているのは、素晴らしい細工を施した青銅の門であったと言われます。その美しさは神の恵みの麗しさを表現したものであったに違いありません。人々は神を礼拝するためにその門を通っていきます。しかしその門の前に、荷物のように「運ばれて」「置かれている」人がいた。神の恵みとは無関係なものと見なされている人、そして、自分自身でも自分をそう見なしている人が、毎日荷物のように運ばれては置かれてそこにいたのです。
それはまことに悲しむべき姿です。しかし、聖書が描き出しているのは、ある意味では特別な姿ではないとも言えます。当時の社会には形を変えてそのような人はいくらでもいたに違いない。いや現代においても、形を変えてそのような人はいくらでもいるに違いありません。「運ばれて」「置かれて」いる人。「運ばれて」「置かれて」いる者であるかのように、家庭生活をし、「運ばれて」「置かれている」者であるかのように、職場で、学校で、一日を過ごしている人。この人がそうであったように、神の恵みは自分とは無関係だと思っているゆえに、神に期待することも、神に求めることも無い。もはや未来に期待し、待ち望むものは何も無い。ただ運ばれて、ただ置かれているだけ。いや、この国の有り様を見るならば、今日の日本の社会そのものが、いわばこの物乞いの姿と同じになっているとさえ言えるのではないかとも思います。
宣教によって、信仰によって
しかし、その「運ばれて」「置かれて」いた人が、一つの出会いを経験するのです。そこに大きな転換が起こるのです。3節以下をご覧ください。「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』」(3‐6節)。
彼がペトロとヨハネに求めていたのは「施し」でした。それ以上は求めていませんでした。ペトロとヨハネが彼を見つめて「わたしたちを見なさい」と言った時にも、その男は、「きっと何かもらえるだろう」と考えていたに違いない。ですから、普通に考えるならば、そこでペトロとヨハネがなすべきことは、彼の求めに応えてあげることなのでしょう。すなわち、いくばくかの施しをすることであったはずです。
しかし、ペトロとヨハネはこの男の求めに直接応えはしませんでした。ペトロはこう言ったのです。「わたしには金や銀はない」。なんと期待はずれな答えでしょう。ところが、ペトロの言葉はそれで終わりませんでした。彼はこう言ったのです。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
ペトロがしようとしていたのは、この男の当座の必要を満たすことではありませんでした。ペトロが与えようとしていたのは施しではなく、イエス・キリストの御名でした。しかし、イエス・キリストの御名は与えられるだけでは意味をなさないのです。それは信仰によって受け取られなくてはなりません。
ペトロとその男との間に起こったことは、実に象徴的な出来事でした。ペトロは、彼に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じたのです。そして、命じただけでなくペトロはこの男に向かって手を伸ばしたのです。「右手を取って彼を立ち上がらせた」と書かれているのです。手を伸ばして右手を取った。しかし、足は動かなくてもこの男の手は動くのです。ですからペトロの手を払いのけることもできたはずなのです。また、払いのけても不思議ではない状況であったとも言えるでしょう。そもそも彼は施しを期待していたのですから。お金を期待していたのですから。その意味では期待はずれなのです。しかも、「立ち上がり、歩きなさい」とペトロは言う。足が悪くて立ち上がれないから座っていたのでしょう。それが彼の人生だったのでしょう。「あなたは、私がこれまで立ち上がれないためにどれだけ苦しんできたか、全く分かっていない!」と言うこともできたのでしょう。
しかし、彼はペトロの言葉を退けなかったのです。「イエスの御名を退けなかったのです」。伸ばされた手を払いのけなかった。ペトロが彼の右手を取って立ち上がらせようとしたとき、彼はペトロの助けを受けて、イエスの御名を信じて受け取ったのです。言い換えるならば、神の恵みを信仰によって受け取ったのです。イエスの御名を与えるのは「宣教」です。イエスの御名を受け取るのは「信仰」です。「宣教」と「信仰」とが一つになった時、そこに神の御業が現れたのです。
この人は立ち上がって、歩き出しました。それは何を意味するのでしょうか。ここに書かれていることは、単に彼の肉体が癒されたということではありません。聖書が伝えているのは、肉体の癒し以上のことです。それゆえに、ここに書かれていることは、「宣教」と「信仰」とが一つになる時に、すべての人に起こる出来事であるとも言えるのです。
神を賛美し始めた人
そこに起こった「肉体の癒し」以上のこととは何か。7節以下をお読みします。「そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の『美しい門』のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた」(7‐10節)。
もし、彼が単に足を癒されたことを喜んでいただけであるなら、それは「施しを受ける」というのと同じ次元のことに過ぎません。奇跡の記憶などは時が経つにつれて薄れていくものです。彼の人生は違った形で、「運ばれ」「置かれている」だけのものに戻っていったかもしれません。
しかし、彼はそうなりませんでした。ここで明らかに強調されているのは、彼が「神を賛美している」姿です。彼は歩けるようになって、まずどこに向かったのか。彼は神を賛美しながら、二人と一緒に神殿の境内に入って行ったと書かれているのです。神の恵みは自分とは無縁だと思っていた人が、神を賛美しながら二人と共に神殿へと向かったのです。つまりここで起こっているのは人生の根本的な転換なのです。人生が神へと向かうという根本的な方向転換なのです。
考えてみてください。足が癒された。それは必ずしも生活が楽になったことを意味しません。この後、彼は自分の足で職を探さなくてはならないのです。先にも申しましたように、彼は既に四十を過ぎている人です。平均寿命を考えるなら、今日の四十歳とは意味合いは全く違います。しかも、今までずっと物乞いをしてきた人です。これから多くの困難に直面することは目に見えています。
しかし、ともかく彼はもはや「運ばれて」「置かれて」いる人ではないのです。彼は歩き出したのです。ある意味で未来に向かって歩き出したのです。そして、未来に向かって歩き出すことは恐ろしいことではなかったのです。なぜなら、神を賛美しているからです。まず向かったのは神殿だからです。しかも、そこには共に神を賛美する仲間がいるのです。もはや目に見える世界が全てではない。彼は主を信じる人々と共に、目に見えない御方を賛美して、目に見えない御方に信頼して、共に礼拝して生きる人となったのです。
御名を与えるために
これが「宣教」と「信仰」が一つになる時に起こる出来事です。さて、この場面はこの世界に教会が置かれている意味を明瞭に示しているとも言えるでしょう。教会がこの世界において本当にしなくてはならないことは何なのか。ペトロは「金や銀はない」と言いました。本当になかったのだと思います。今日、教会はどうでしょう。日本に生きる信仰者はどうでしょう。「金や銀はある」と言うでしょうか。確かに自分の持っているもので人々のニーズに直接的に応えることも、ある意味ではできる。もちろんそれ自体は悪いことではありません。
しかし、往々にして、「金や銀はある」と言う者は、金や銀の為し得ることが全てだと思ってしまうのです。人々のニーズに応えることは大切です。為し得るならば、それをしたら良いと思います。しかし、金や銀の為し得ることだけで、神の使命を果たしたと思うなら、それはやはり違うでしょう。教会が為すべきこと、為し得ることは、ここに描かれているように、「イエス・キリストの御名」を与えることなのです。
イエス・キリストの名が与えられる時、そこに金や銀の為し得ないことが起こるのです。ただキリストのみが為し得ることが起こるのです。すなわち、そこに神の救いが到来するのです。呪われた人生であるかのように生きていた人が、神の恵みから遠く離れて生きていた人が、ただ「運ばれて」「置かれて」生きていた人が、神を誉め讃え、神に期待し、神と共に、また信じる人々と共に、前に向かって歩み出す人となるのです。そのようなイエス・キリストの御名を与えるためにこの世界に遣わされているのが教会なのです。