ルカによる福音書4:1-13
去る水曜日からレント(受難節)に入りました。受難節はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間に入りまして今日は最初の日曜日に当たります。レントの最初の日曜日には、世界中の多くの教会において「荒野の誘惑」の聖書箇所が読まれます。日本キリスト教団の聖書日課を用いている私たちの教会では、今年はルカによる福音書の該当箇所が読まれました。
誘惑と試練
「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」(1節)。そのような言葉から始まりました。ヨルダン川での出来事は三章に記されています。主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたのです。その時、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(3:22)と書かれております。こうして、主は聖霊に満ちてヨルダン川から帰られたのでした。荒れ野の誘惑はその直後のことです。しかも、この誘惑の後には、「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」(4:14)と書かれております。ルカによる福音書は殊更にイエス様を聖霊に満ちた御方として描いていることが分かります。
このことは極めて重要です。なぜなら、福音書に続く第二巻目に、やはり聖霊が目に見える姿で降ったことが記されているからです。使徒言行録二章に書かれている出来事です。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐5)。こうして地上に教会が誕生しました。そして、聖書は繰り返し彼らが聖霊に満たされたことを伝えているのです。
私たちもまた、そのように始まった教会の歴史の中に置かれております。私たちもまた、神の霊によって誕生し、神の霊によって生きるのです。それが私たちの教会生活です。しかし、今日の聖書箇所は、そんな私たちに一つの注意を促します。聖霊に満ちて帰られたキリストはただちに誘惑に遭ったのです。第二巻として使徒言行録を書き記したルカにとって、キリストの遭った誘惑は後の教会と無関係ではなかったのです。私たちがまことに聖霊に満たされたキリスト者であることを求め、教会がまことにキリストの体なる教会であることを求めるならば、当然、そこには悪魔の誘惑もまたあることを知る必要があるのでしょう。
さて、そもそも「誘惑」とは何なのでしょう。今日の箇所で誘惑の主体となっているのは「悪魔」です。しかし、1節には「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」と書かれているのです。「引き回す」と訳されているのは「導く」という言葉なのですが、いずれにしても、そこには強い神の意志があることが示されています。誘惑をするのは悪魔でありますが、神があえてそこに導いたということです。そうしますと、これは単に「誘惑」という言葉では表し得ない内容を持っていることが分かります。「誘惑を受ける」と訳されている言葉は、「試される」とも訳せる言葉です。それは「試練」という言葉とも関係します。悪魔を主体として見る時に、それは誘惑となりますが、神を主体として見る時にそれは人間が試されることであり、人間にとっては試練となります。
そうしますと、ここに書かれていることは、さらに遡って荒れ野を旅したイスラエルの民の姿と重なってまいります。「四十日」という言葉も、イスラエルが荒れ野を旅した四十年の期間を想起させます。彼らを荒れ野に導いたのは神でした。何のためでしょうか。
今日の箇所においてイエス様がいくつかの聖書の言葉を引用しておられますが、最初の引用は次のような御言葉でした。「人はパンだけで生きるものではない」。これは申命記8章3節からの引用です。イエス様が念頭に置いていたのはやはり荒れ野を旅したイスラエルでした。イエス様が引用された御言葉の直前には、こう書かれているのです。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(申命記8:2)。
何のために荒れ野に導かれたのか。何のための試練なのか。内にあるものが外に現れるためです。「主は、あなたの心にあること・・・を知ろうとされた」と言うのです。実際、荒れ野へと導かれて、心の内に潜んでいたものが激しく外に現れることになりました。神に救われて意気揚々とエジプトを脱出したイスラエルの民だったはずです。神によって海の中に開かれた道を喜びと賛美に溢れて渡って行ったイスラエルの民だったはずです。しかし、荒れ野へと導かれた時に、彼らの内にあるものが激しく現れることになりました。不平として、不満として。不信仰から出るもろもろの言葉として。
考えてみれば、試練など与えなくても神は人の心の内にあるものなどいくらでも知ることはできるのでしょう。内にあるものが外に現れることが必要なのは、神にとってというよりも人間にとってであるに違いありません。確かに神に知られていることが人の目から見ても明らかにされる。そうあってこそ悔い改めもまたあるからです。それはかつてのイスラエルにとってそうであったように、後の教会にとっても、私たちにとっても同じです。そして、私たちに先立って、教会の原型であるキリストが、荒れ野に導かれて誘惑を受けられ、試練を受けておられる。そして、誘惑を退けて試練に打ち勝っている姿を私たちはそこに見ているのです。
主を試してはならない
ルカによる福音書は、イエス様が受けられた三つの誘惑を伝えています。今日はこの中で、特に第一朗読との関連で、イエス様が受けられた三つ目の誘惑に注目したいと思います。次のように書かれていました。
「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。」また、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」』イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」と言われている』とお答えになった」(9~12節)。
イエス様は荒れ野にいるわけですから「エルサレムに連れて行き」というのは悪魔によって見せられた幻の中での出来事でしょう。しかし、その場面が「エルサレム」であることが明らかにされていることは重要です。なぜなら、後に見るように、その「エルサレム」こそが、悪魔との最終的な対決の場となるからです。
ここにおいて悪魔は聖書を引用して語ります。「聖書にはこう書かれているでしょう」と、まるで敬虔な信仰者のようです。悪魔の誘惑が必ずしも「悪魔らしく」やって来るとは限りません。否、往々にしてそこに誘惑があると人はなかなか気づかないものなのでしょう。試練の中にある時、そこにまた誘惑があると気づかない。神から引き離そうとする者の誘いがあることに気づかないものです。
では、敬虔な信仰者を装った悪魔の言葉の中に、いかなる誘惑があったのでしょうか。それはイエス様がどのように悪魔の言葉を退けたか、ということから理解することができます。イエス様はこう答えられたのです。「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」(12節)。イエス様が引用されたのは、今日の第一朗読で読まれました申命記6章16節の御言葉です。そして、当然のことながら、イエス様はそれがどのような文脈の中で語られているかをご存知です。主が引用された申命記にはこう書かれていました。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記6:16)。
「あなたたちがマサにいたときにしたように」――このこともまた、イスラエルが荒れ野を旅した時のことを背景にしています。イスラエルの人たちは、いったいマサで何をしたのでしょうか。今日は開きませんが、その物語は出エジプト記17章に出ています。このような話です。
彼らはレフィディムというところに宿営していました。「そこには民の飲み水がなかった」(出17:1)と書かれています。飲み水が尽きてしまったわけではありません。水の蓄えなしで旅することはありませんから。そこでは水の補給ができなかったということです。次第に水が乏しくなっていきます。飲みたいのを我慢しなくてはなりません。先のことが不安にもなります。そこで例によって人々は不平を言い出したのです。彼らはモーセに言いました。「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」(出17:3)。そして、今回はついにモーセを石で打ち殺そうとしたのです。
そこで神はモーセに、一つの岩を杖で打つように指示しました。モーセがその通りにすると、岩から水が流れ出て、民は飲むことができたと記されています。神の恩寵が見える形で現されました。神とモーセの関わりも、これによって明らかにされました。しかし、聖書はこの出来事の起こった場所について、それを「神の恵みが現れた場所」であるとは説明していないのです。こう書かれています。「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」(同7節)。
「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」。あの時、次第に水が乏しくなって行った時、試されていたのは人間の方だったはずでしょう。本当はそこで神への信頼と従順が問われていたのでしょう。その直前の17章には、荒れ野で食べ物がなかった時に、神が天からマナという食べ物を降らせてくださったことが書かれているのです。既にエジプトから救い出されたところから、常に神の恵みが先にあるのです。そこで信頼と従順が問われていたのです。
しかし、人間は神から問われる側にいることを良しとしない。神に問われるよりは、神を問う側に立とうとするのです。試される側ではなく、試す側に立とうとするのです。「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と。そして、人間が試す側、テストする側に立って、「神が我々の間におられるのなら確かなしるしを見せよ」と要求するのです。「神が愛しておられるなら確かなしるしを見せよ」と。我々が渇いているのだから水を与えよ、と。そのようにして、人間が神を試す側に立って、テストする側に立って、マルをつけバツを付けるのです。水を与えようとしない神にバツを付ける。その具体的な表現は、神が立てたモーセを石で打って殺そうとするということでした。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」神とその御言葉への究極の信頼を求める言葉に聞こえなくもありません。しかし、そこにかつてイスラエルが陥った誘惑があることをキリストは知っていたのです。そして、これを書いているルカは、同じ誘惑に後の教会もまた常にさらされていることを知っているのでしょう。
さて、主が退けられたこの誘惑が、三番目に置かれているのにはそれなりの理由があるのでしょう。この第三の誘惑は、その先にある主の受難物語を指し示しているのです。やがて来る、同じエルサレムにおける出来事を指し示しているのです。13節にはこう書かれていました。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」。やがて「時が来る」のです。それは主の十字架の時です。祭司長たちは叫びます。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」しかし、そこでも主は最後の誘惑に打ち勝ちます。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って、主は息を引き取られたのでした。
(祈り)