2018年10月7日日曜日

「信仰の成熟を目指して」

ヘブライ6:1-12

キリストの教えの初歩を離れて
 今日の第二朗読は「だから」という言葉で始まっていました。今日は6章の初めから読まれたのですが、話は前から続いています。そして、実はこの直前には、非常に厳しいことが書かれているのです。

 この手紙の著者は読者に対してこう言っています。「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」(5:12)。ある程度信仰生活の長い人に対して彼は言うのです。「今ではもう教師となっているはずなのに」。この「教師」というのは職制としての教師ではありません。ある程度信仰生活が長ければ本当はもう信仰について「教える側」になっているはずだ、と言っているのです。しかし、実際には「固い食物の代わりに、乳を必要とする始末」だと言うのです。

 「乳」とはそこに書かれているように「神の言葉の初歩」のことです。そして、「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子です」と言うのです。だから「固い食物」は食べることができない。「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」(同14節)。もちろん、意味合いとしては「あなたたちはまだ一人前の大人ではない」ということです。「乳を飲んでいる幼子だ」と。これが今日の箇所の直前に書かれている言葉です。

 そのような極めて辛辣な言葉に続いて、「だから」と言って今日の箇所に入るのです。そう考えると話の流れとしては変なのです。固い食べ物を食べられない幼子だから、「だからあなたがたにはまだまだ乳を与えることが必要だ」と続くのではなく、「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」と続くのです。

 これを読みますと、既に述べられたことは、いわば多分に挑発的な言葉であったことが分かります。「そのとおりです。私たちは確かに、まだ乳を必要としている幼子です」と言って欲しいわけではないのです。読者に発奮して欲しいのです。幼子であることに甘んじて欲しくないのです。読んでいる教会の人に、とにかく成長したい、成熟したいという願いを持って欲しいのでしょう。

 ここには「キリストの教えの初歩を離れて」と書かれています。その「キリストの教えの初歩」の例として、ここでは「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」が挙げられています。

 「死んだ行いの悔い改め」とありました。命の源は神様です。その神に背を向けた生き方とそこから生まれる行い。それが「死んだ行い」です。そこから方向転換をすること、それが悔い改めです。そして、神に立ち帰り、神と共に生きていく。それが「神への信仰」です。それは確かに基本的な教えと言えるでしょう。

 しかし、そこに「種々の洗礼についての教え」と続きます。「種々の洗礼」と複数になっているのは、「洗礼(バプテスマ)」そのものは、必ずしもキリスト教会だけが行っていたのではないからです。異邦人がユダヤ教へと改宗する時に洗礼が行われました。またヨハネの授けていたバプテスマがありました。そのような中において、教会において主の御名によって授けられる洗礼はいかなるものか。主イエスが授けてくださる「聖霊によるバプテスマ」とは何であるか。そのことについての教えが「種々の洗礼についての教え」です。

 「手を置く儀式」とは、教会がその初めから今日に至るまで様々な場面において行ってきたものです。それは洗礼式においても行われますし、病気の癒しの場面においても行われてきました。しかし、最も典型的な場面は、牧師など教職の任職であると言えるかもしれません。

 「死者の復活」は死を越えた最終的な救いについての教えです。それはまた、「永遠の審判」と共に語られています。最終的にこの世界と私たち一人ひとりを裁くことができるのは神様です。最終的に罪を裁くことができるのは神様ですから、最終的に罪を赦すことができるのも神様なのです。そして、それは神様のなさることですから、永遠の救いに関わっているのです。

 どうでしょう。これらが「基本的な教え」と呼ばれ「キリストの教えの初歩」と呼ばれているものです。どれ一つ取っても、大変な内容を持つものです。しかし、聖書の標準からすれば、これはまだ幼子の飲む「乳」に過ぎないのです。そう考えると、私たちもまた、確かにまだ乳を必要とする幼子だと言わざるを得ないかもしれません。しかし、そこに留まっていてはならないのです。目指すべきはその先にあるのです。乳離れして、固い食べ物も食べられる信仰者になることです。彼は言うのです。「成熟を目指して進みましょう」と。

最後まで希望を持ち続けるために
 それはなぜなのでしょう。なぜそこまで言うのでしょう。それはこの手紙が、試練の中にある教会に宛てて書かれた手紙だからです。これを読んでいるのは、既に迫害を経験していた人たちです。そして、さらに大きな迫害が近づいていた。そのような困難の中で、どのように信仰生活を保っていくかという死活問題があるのです。

 試練によって信仰が揺さぶられる時、その土台として信仰に関わる基本的な事柄が身についていることは確かに必要なことです。しかし、この著者に言わせるならば、それでも十分ではないのです。それはなぜなのか。この人には、分かっているからです。試練の中において信仰を捨てるということ、すなわち棄教するということがどういうことか、ということを。

 彼はここで、極めて厳しい語り口をもって、次のように語り始めます。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」(4‐6節)。

 信仰者として、この言葉を読んで恐れを抱かない人はいないでしょう。もっとも、「再び悔い改めに立ち帰らせることはできない」のはあくまでも人間の側としてのことであって、人にはできなくても神にはできるということが留保されていると言うことはできます。しかし、それは神の恵みとしての留保なのであって、神が立ち帰らせてくださることを当然のこととすることはできません。私たちが「恐れ」を抱くことは、ある意味ではとても健全なことなのです。神を離れて堕落しても、後で立ち帰ることができるなどと安易に考えてはならない。信仰を捨てても、また後で持つことができると安易に考えてはならない。そういうことです。

 当然のことながら、彼は棄教した人を断罪するためにこれを書いているのではありません。そうではなくて、あくまでも彼は信仰を保っている人々に対して語りかけているのです。これは警告として語られているのであって、願いはもちろん、どんな試練があっても信仰に留まって欲しい、何としても信仰に留まって欲しいということです。

 ですからさらにこう続けるのです。「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」(9節)。そして、神様がこれまでの信仰生活を見ていてくださって、決して忘れることはないのだと励ましているのです。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」(10節)と。

 信仰の実りとしての行いが、必ずしも人の目に留まるわけではないし、また覚えられているわけではありません。また自分でも覚えていないことがあるかもしれません。しかし、神様は覚えていてくださる。なぜなら神様は不義な方ではないから。

 この手紙の著者は読者に対して、あなたがたは乳を飲んでいる幼子だと語りました。確かにそうだったのでしょう。しかし、そうであっても信仰をもってここまで生きてきたことは、神の御前において決して小さなことではないのです。それは私たちについても同じです。依然として今なお乳を必要としている幼子かもしれません。しかし、それでもなお神様はその信仰生活に目を留め、心にかけ、覚えていてくださるのです。だから私たちは卑下する必要はないのです。安心して、「成熟を目指して進みましょう」という言葉を受け止めたらよいのです。

 そして、11節に至って、厳しいことを語ってきたこの人の真意が次のように語られています。「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(11‐12節)。

 「怠け者」と訳されているのは、別の箇所で「鈍くなっている」(5:11)と訳されている言葉です。本当に大事なことについて鈍くなって欲しくない。むしろ信仰の先達たちを見倣って、その後に続く者となって欲しい。それが願いです。そのような信仰の先達たちの代表として挙げられるのはアブラハムです。彼についてはこの直後に言及されていますし、また後に11章に登場します。

 創世記を読むとよく分かりますが、アブラハムは人間としては完全な人と言うにほど遠い人でした。またその信仰は度々試練に遭い、振るわれました。しかし、彼は最後まで忍耐強く信仰を全うし、希望を失いませんでした。そのようにわたしたちも最後まで希望を持ち続けることができるようにとこの著者は願っているのです。私たちはそうありたい。そのためにも、信仰の基本的なことがらはもとより、そこからさらに進んで、常に成熟を目指して歩みたいと思うのです。

(祈り)

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