マルコ14:66-72
強い人ペトロ
イエスの一番弟子ペトロは、もともとガリラヤの漁師でした。当時の主な職業は一般的に世襲です。彼は漁師の家に生まれたので、漁師の子どもとして育てられたのでしょう。一人前の漁師になるために、親のもとで厳しい訓練を受けてきたのだと思います。漁に出たならば、舟の上ではそれぞれが自分の責任をしっかりと果たさねばなりません。そこでは自分の責任を担う強さが要求されます。舟の上で弱さをさらけ出したり、狼狽えたりして、仲間の足手まといになるわけにはいきません。それは一人前の漁師として恥ずべきことです。
また、彼の家が通常のユダヤ人の家庭なら、彼もまたユダヤ人の子どもとして律法の教育を受けてきたことでしょう。ユダヤ人の子どもは一三歳になると成人を迎えます。「バル・ミツヴァ(律法の子)」と呼ばれるようになります。すなわち、ユダヤ人の共同体に属する者として、律法の義務が科せられるようになるのです。彼は責任ある大人として、定められたことをきちんと果たす強さを要求されることになります。律法を守ることができないということは、律法違反を咎められるだけではなく、一人前の大人として、実に恥ずべきことだったのです。
もちろん、子供が大人となっていくプロセスにおいて、そのような自立した強さを要求されるということは、何もユダヤ人や漁師の家に固有なことではありません。この国に生きる私たちにもある程度身に覚えがあります。この国の子供たちの多くは「人様に迷惑をかけないように」と言って育てられます。人の手を借りずに自分のことはきちんと自分で出来る子が《しっかりした良い子》と呼ばれます。この国においても、やはり賞賛されるのは自立した強い人です。弱いこと、人に頼ることは、しばしば恥ずかしいことと見なされます。ですから、人生の最後まで、「子どもや孫の世話になどならない!」と言い張る人もいるのでしょう。
しかし、現実はなかなか思い通りにはいきません。人の助けを得なくてはどうにもならない時はあります。自分の弱さをさらけ出してしまう時はあるのでしょう。一生の間には幾度も、狼狽えたり、取り乱したり、恥をかいたりということを繰り返すものです。しかし、本来は強いことが良いことだと思っているならば、弱さを覆い隠して、対面を取り繕おうとするのでしょう。いや、他の人に対して弱さを覆い隠そうとするだけでなく、自分自身に対しても覆い隠そうとすることもあります。弱い自分だと思いたくない。できるだけ自分の弱さを見ないようにしたい。恥ずかしいことは、それこそ心の箪笥の一番奥の方にしまい込んでしまいたい、と。
どうもペトロという人物もそうだったようです。福音書を読みますと、彼はしばしば自分の弱さをさらけ出しています。例えばこんなことがありました。ある日、イエス様と弟子たちがガリラヤ湖畔におりました時、主は「湖の向こう岸に渡ろう」と言い出されました。そこでイエス様と弟子たちは船出いたします。ところが突風が湖に吹き下ろしてきて、彼らは水をかぶり、危なくなりました。弟子たちは狼狽えます。見るとイエス様は嵐の中で舟が沈みそうだというのに、安らかにスヤスヤと眠っているではありませんか。彼らは主を起こして言いました。「先生、先生、おぼれそうです」。すると、主は風と荒波とを叱って静め、弟子たちにこう言われたのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(8:25)と。嵐の中で落ち着いていたのは漁師でもないイエス様おひとりでした。全くもってプロの漁師としての面目丸つぶれです。それはペトロにとって実に恥ずかしい経験だったに違いありません。
どんなに訓練を積んできたとしても、どれほど経験を積んでいたとしても、いざ命が危険にさらされる時、自分の心の内に何が起こるかわからない。そういうものなのでしょう。しかし、弱さをさらけだしたこの失態はペトロの心の箪笥の奥深くに仕舞い込まれてしまったようです。最後の晩餐を終えてイエス様と弟子たちがゲツセマネの園に向かっていた時、すなわちイエス様が捕らえられるその時が刻一刻と近づいていたその時に、イエス様はこう言われました。「あなたがたは皆、わたしにつまずく」と。それは弟子たちがイエス様を見捨てて逃げていくことを意味しました。もちろん、それはペトロをも含めてイエス様は言われたのです。しかし、その時、ペトロはかつて弱さをさらけ出した自分であることを思い起こすことはありませんでした。彼は言いました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29節)。その思いは他の弟子たちにしても同じでした。
これまで主日の礼拝においてマルコによる福音書が毎週朗読されてきました。そこにはイエス様と多くの人々との出会いの物語がありました。汚れた霊に憑かれた男が解放されました。重い皮膚病を患っていた人が清められ、社会に復帰していきました。友人たちに連れて来られた中風の者が罪の赦しの宣言を受け、癒されました。お腹をすかしていた五千人以上の人々にパンが与えられました。盲人の物乞いの目が癒されました。多くの人々が救いを求めて集まってきました。
そのような人々との関わりの中で、あの十二人はどこにいたのでしょう。彼らは主に癒された人々をどのように見ていたのでしょうか。彼らはいつでも、イエス様の側近くにいたのです。癒される人々の側ではなく、癒すイエス様の側にいたのです。助けられる側ではなく、助ける側に身を置いていたのです。彼らは、癒された盲人の物乞いと自分たちとの間に、明らかに一線を引いていたと思います。少なくとも、彼らはそのような癒しを必要としてはいなかったからです。彼らはイエスに従う者であることを自認する「弟子たち」であり「使徒たち」です。そして、それぞれが死に至るまで弟子であり続けると思っていたに違いありません。
しかし、イエス様は「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言ったペトロにこう言われたのです。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(30節)。しかし、それでもなおペトロは自分の弱さを認めようとはしませんでした。ペトロはあの舟の中で取り乱していた自分の姿を思い起こすことはありませんでした。ペトロは力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31節)。彼だけではありません。皆の者も同じように言ったのです。
涙を流すペトロ
さて、実際にはどうなったのでしょうか。先々週の礼拝において朗読されたように、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(50節)。ペトロだけは、イエス様が捕えられ、大祭司の家に連れていかれましたとき、遠くからついて行ったようです。そして屋敷の中庭まで入り込み、人々と共に火にあたりながら、事の成り行きを見守っていました。そして、今日の福音書朗読において私たちが耳にしたことが起こりました。
大祭司に仕える女中のひとりが、火にあたっているペトロをじっと見つめていました。そして、こう言ったのです。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」ペトロは女の一言に震え上がりました。そして、とっさにこれを打ち消します。「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」。そう言って出口の方へ出ていきました。
しかし、屋敷に連れてこられたイエス様の事が気になって、出て行くことはできません。彼はなおも中庭に留まります。するとまた、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に言い出します。「この人は、あの人たちの仲間です」。ペトロは再びこれを打ち消しました。そして、しばらくすると、そばに立っていた人たちがまたペトロに言い始めます。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」おそらく、ペトロが答えているときに彼のガリラヤ訛りを耳にしたのでしょう。
ペトロはこれを強く打ち消します。「呪いの言葉さえ口にしながら」と書かれています。「もし偽りを語っていたら神に呪われても良い」と言って激しく誓い始めたということです。彼はそのように神にかけて誓ってこう言ったのです。「あなたがたの言っているそんな人は知らない」。そのようなことを自分が口にするとは、夢にも思っていなかったに違いありません。しかし、その時、二度目に鶏が鳴きました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」イエス様の言葉をペトロは思い出したのでした。
ペトロがその時に思い出したように、イエス様は弟子たちが御自分を見捨てて逃げてしまうことをご存じでした。ペトロが三度も御自分を否んでしまうことをご存じでした。ペトロを含め、弟子たちの内にあるものをご存じでした。それが外に現れてしまうことをご存じでした。しかし、ただ内にあるものが外に現れることをイエス様が望んでおられたわけではありません。そこには、実は絶対に聞き落としてはならない言葉がありました。イエス様はあの時、こう言われたのです。「あなたがたは皆わたしにつまずく。…しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(27‐28節)。
「あなたがたより先にガリラヤへ行く」ということは、イエス様はガリラヤで再び弟子たちに会うことを考えておられたということです。イエス様は先に行って待っていてくださるということです。イエス様を裏切り、イエス様を見捨てて逃げていくその弟子たちを、イエス様は先にガリラヤに行って待っていてくださる。「あなたがたは散らされる。わたしを見捨てて逃げていく。そこであなたがたは徹底的に自分自身の弱さと惨めさを知り、自らの罪深さを思い知ることだろう。しかし、私は先にガリラヤに行って待っている。ボロボロになった惨めなおまえたちが私のもとに来るのを待っている。」――「あなたがたより先にガリラヤへ行く」とはそういうことです。
イエス様は「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」とペトロに言われました。しかし、その時、イエス様の内にあったのは、ペトロに向けられた、そして弟子たちに向けられた憐れみであり慈しみだったのです。ペトロはイエス様の言葉を思い出しました。しかし、そこでペトロの心に浮かんできたのは、「わたしの言ったとおりになったではないか」と言って責めているイエス様の眼差しではなかっただろうと思います。そうではなくて、憐れみに満ちたイエス様の眼差しであったはずなのです。
だからペトロは泣いたのです。あたりはばかることなく激しく大声を上げて泣いたのです。彼は弱い自分を悲しみ、罪深い自分を悲しんで、激しく泣いた。泣くことができたのです。それまで彼は、漁師として、ユダヤ人として、そして十二弟子の一人として、また将来はメシアの王国のナンバー2になるべき人間として、強くなくてはなりませんでした。他の人々のために泣くことはあっても、自分の弱さと罪深さを泣いているわけにはいかなかったのです。しかし、もういいのです。イエス様は何もかもご存じだった。どんなに強がって見せたって、虚勢を張って見せたって、イエス様はすべてご存じだということが分かったから。だからペトロは泣きました。自分自身のありのままの姿を認めて激しく泣いたのです。
これがペトロです。後に教会の指導者となる使徒ペトロです。この物語は四つの福音書すべてに記されています。恐らく後の使徒ペトロは、この出来事を繰り返し人々に語ったに違いありません。だからこの物語が残っているのでしょう。ペトロははばかることなく、自分の弱さを語り続けた。なぜなら、あの時の涙なくして、後のペトロはなかったからです。私たちも、同じです。神様に仕えて生きようとする時に、本当に必要なのは私たち自身の強さではないのです。そうではなくて、主は全てをご存知であることを知ることなのです。その上で、私たちをこの上なく愛してくださっている主が共にいてくださることを知ることなのです。
(祈り)