2013年5月12日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 4章1節~15節
神から招かれたのですから
「神から招かれたのですから」――そう書かれていました。ここには140名ほどの人が毎週集まって礼拝を捧げています。お互い住んでいる地域も違う。育ってきた環境も違う。普通に考えるならば出会うはずのない私たちお互いが、一緒に心を合わせて讃美歌をうたい、共に祈っているのです。そこに改めて神の御業を見る思いがいたします。パウロはその神秘を指して「神から招かれたのですから」と言うのです。確かにそうです。私たちが共にいるのは偶然ではありません。「わたしが教会に来ようと決めて、わたしの意志で信じたのだ」と言う人がいるかもしれませんし、「学校から勧められて来ました」という人がいるかもしれません。しかし、これは単に人間の意志によって実現したことではないのです。「神から招かれたのですから」――そう、ここには神のご意志が働いている。神様が私たちを招いてくださったのです。
神様は何のために私たちを招いてくださったのでしょう。もちろん、私たちをお救いになるために違いありません。イエス様がなさった「百匹の羊のたとえ」をご存じでしょう。群れから迷い出た一匹の羊を羊飼いが見つけ出すまで捜し求めるという話しです。そして、見失った一匹の羊を見つけたら、羊飼いは喜んでその羊を担いで家に帰る。そのように神様は人間を追い求めておられます。迷い出たまま滅びてしまうことがないように、追い求めてくださるのです。私たちをここに呼び集めてくださった神様は、そのように私たちを救うために、私たち一人一人を追い求めてくださった神様です。
しかし、神様の与えようとしている救いは、ただ単に私たち個人の救いに留まりません。神様のなさろうとしていることは、もっと大きなことです。この手紙の一章にはこのようなことが書かれています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(7‐10節)。
私たちは御子の血によって贖われ、罪を赦されました。しかし、それで終わりではないのです。その先へと向かっている。神様の救いの業はやがて完成されるのです。神様が目指しておられるのは救いの完成です。それは「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」ことだと書かれています。私たちが罪を赦され、滅びから救われるというだけではなく、人間の罪によって神と断絶し、互いにズタズタに引き裂かれたこの世界そのものが救い主のもとに一つとされる。そこにこそ救いの完成はあるのです。
その「救いの完成」という目的のもとに、私たちは招かれました。呼び集められました。ただ私たち自身の救いのためではありません。この世界が一つとされる前に、まず私たちがキリストのもとに一つとされるためです。そのように私たちが、最終的な神の救いの完成を指し示すしるしとなるためです。そのように救いの完成を指し示すのが教会という存在なのです。
招きにふさわしく歩みなさい
ですから「神から招かれたのですから」という言葉はこう続くのです。「その招きにふさわしく歩み(なさい)」。既に述べてきたことから、「招きにふさわしく歩む」ということが何を意味するか、もうお分かりでしょう。それは「一つになろう」とすることです。人間の罪はバラバラにしようとする方向に働きます。その罪の力に抗って「一つになろう」という方向に歩いていくことです。「一つになろう」という方向に向かって生きていくことです。それが「招きにふさわしく歩む」ということです。そのためには当然、必要なことがあります。パウロの言葉はこう続きます。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(2‐3節)。
ここには「霊による一致」と書かれていることに注意してください。単に人間の努力による一致ではないのです。肉による一致ではないのです。人間がそうしようと思えば一つになれると語るほどパウロはナイーブではありません。聖書は極めて現実的な書物です。人間の罪の深刻さを知っているからです。ですから、あえて「霊による一致を保つように」と書いているのです。それは神の霊のお働きによる一致です。
私たちは「一つになろう」とすることはできますが、私たちの力によって「一つになる」ことはできません。一つにするのはあくまでも聖霊のお働きです。ですから、私たちにとって重要なことは、その働きの邪魔をしないことなのです。ですから「保つように」と書かれているのです。この「保つ」という言葉は、看守が牢獄を見張るという意味で使われる言葉です。聖霊による一致を邪魔するものや壊すものが入り込まないように、見張らなくてはならないのです。
たとえば、私たちの「高ぶり」が「へりくだることの欠如」が聖霊による一致を壊します。「私が、私が」という肉の頑張りや肉の誇りが霊の働きを邪魔します。忍耐のなさが、一致を妨げることがあるでしょう。具体的にどうしたら良いのでしょうか。四つのことが挙げられています。守る者が常にチェックしていなくてはならない四つのチェック項目です。謙虚であること、柔和であること、寛容であること、愛をもって忍耐すること。他人をチェックする必要はありません。それぞれが自分をこの四点において省みる時に、平和の絆で結ばれて、聖霊による一致は保たれるのです。
異なることを重んじる
そのように「招きにふさわしく歩む」とは一つになろうとする事だと申しました。そして、パウロは畳み掛けるように、「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(4‐6節)と語ります。ここで強調されているのは明らかに「一」です。「一」であることが重要なのです。
しかし、それは多様性が否定され、個が全体の中に解消されてしまうような、全体主義的な一致を意味しません。パウロは言います。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)。ここには「一人一人」の話が出てくるのです。一人一人にはキリストの賜物のはかりによって、異なる恵みの賜物が与えられているのです。そのことについては、コリントの信徒への手紙Ⅰの12章にも記されていますが、ここでは特に教会の職務との関連において語られています。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」(11節)。実際には今日の私たちの教会においては「使徒」という務めはありませんし、「預言者」という職務も見られません。それらは歴史的に変遷するものですが、いずれにせよ、ここで言いたい最も重要なことは、主が異なる働きを各自に与えているということでしょう。
私たちは互いに異なることを重んじなくてはなりません。自分に与えられていないものが他の人に与えられていることを喜ばなくてはなりません。同じように他の人に与えられていないものが自分にも与えられているのですから。与えられている賜物が異なるならば、務めも異なるのだということを認めなくてはなりません。他の人と同じことを同じようにしようとする必要はありません。大事なことは、互いに異なるものが一緒に「キリストの体を造り上げ」(12節)ていくことです。
成熟を目指して
パウロが言うように教会はキリストの体です。それは既にキリストの体であるということでもあります。しかし、それゆえにまた教会は「キリストの体」として目に見える形に造り上げられねばならないのです。その目標はどこにあるでしょう。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(13節)と書かれているように、「成熟」しなくてはならないのです。
ここで間違ってはならないのですが、「成熟した人間となり」というのは、各自のことではありません。これは「単数」ですから、キリストの体である教会のことです。教会が成熟し、「大人」になるということです。それは「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなる」(13節)ということだと書かれています。
私たちはお互い与えられている賜物は異なります。務めは異なります。他の人と同じである必要はありません。しかし、信じている事柄においては一つでなくてはなりません。信仰だけでなく「信仰と知識において」と書かれています。何を信じているのか、ということを「知っている」ということです。その知識を伴った信仰において一つになる――それが成熟した教会です。ですから世々の教会は「信仰告白」を様々な形で言葉にしてきたのですし、その信仰の内容を共に祈り共に学ぶことを大切にしてきたのです。
そのように「一つになる」ということは単に「仲がいい」ということではありません。皆が何を信じているのか曖昧なまま、ただ「仲がいい」だけの教会があったとするならば、それは分裂している教会よりは良いかもしれませんが、それは成長においてはいわば幼稚園児のレベルと言わざるを得ないでしょう。そのような教会であるならば、時代の思想の風が吹き荒れる時には、その風に翻弄されることになり、あるいは倒れてしまうことになるでしょう。
そうならないように、しっかりと大人にならねばならないとパウロは言うのです。「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(14‐15節)。これが私たちの教会です。平和のきずなで結ばれた私たちが「愛に根ざして真理を語る」ことのできる教会として、キリストの満ちあふれる豊かさに至るまで成長していくことを共に求めていきましょう。