2013年5月5日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 6章5節~15節
今日の福音書朗読は、イエス様がその「主の祈り」を教えてくださった場面です。「主の祈り」は呼びかけの言葉からはじまります。「天におられるわたしたちの父よ」。祈りは瞑想ではありません。「主の祈り」が呼びかけから始まっているように、祈りは語りかけている相手をはっきりと意識した上での語りかけです。誰に語りかけているのでしょう。私たちが信じている神様は、天地の造り主です。万物を統べ治めておられる全地の王です。そのような御方に呼びかけるのですけれど、その時に「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけなさいと、イエス様は教えてくださいました。
「父よ」とありますが、イエス様が使っておられたアラム語では「アッバ」という言葉です。アラム語の「アッバ」という言葉のままで、聖書には三回ほど出てきます。イエス様御自身が祈りの時に使っていた言葉です。これは幼い子どもが家庭において父親に呼びかける言葉です。圧倒的な父親の権威に対して恐れおののきながら使う言葉ではありません。むしろ親しみと愛情を込めた呼びかけです。そのように「父よ―アッバ」と呼びかけなさいとイエス様は言われたのです。
そこで何を祈るのでしょう。イエス様は「アッバ」と呼びかける子どもたちが口にすべき六つの祈りの言葉を教えてくださいました。「御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(9‐10節)。そして、さらに「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(11‐13節)。
父に愛されている子どもたちとして
通常、私たちが「祈り」ということでイメージしますのは、「ください」が付く後半部分の方でしょう。ですので、そちらを先に見ておきましょう。
イエス様は「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りなさいと言われました。このようなイエス様の言葉を聞きますと実に安心します。「こんなことを神様に求めて良いのだろうか」と祈りについて迷いを覚えたことのある人はいませんか。他の人が美しい言葉でいかにも高尚な求めを口にしていることを耳にするときに、自分の祈りが極めて低俗なものに思えたことはありませんか。しかし、イエス様は「ご飯食べさせてください」と祈りなさいと教えてくださったのです。そうです。そのようなことでもお祈りしてよいのです。
「糧」は必要なものの代表です。マルティン・ルターはこの「糧」という言葉が及ぶ範囲は非常に広いということを書いていました。例えば、「食物、飲み物、着物、履き物、家、屋敷、田畑、家畜、金銭、財産、信仰ある夫婦、信仰ある子供、信仰ある下僕、信仰のある忠実な支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、親友、真実な隣人などのごとく、身体の栄養や必需品に属する一切を含んでいる」と。要するに、私たちが生きていく上で、生活していく上で、しかも幸いに生活していく上で必要なありとあらゆるもの。それがこの「必要な糧」が代表しているものなのです。それはすべて愛されている子どもたちとして父に求めたらよいのです。
そして、主はさらにこう祈るように教えられました。「わたしたちの負い目を赦してください」と。私たちに必要なのは、「糧」の類だけではありません。それ以上に、私たちは「赦し」を必要としている者なのです。そして私たちに必要な「赦し」は、最終的には人からではなく神様によって与えられねばなりません。それは私たちがやがて死の床において、もはや誰にも具体的に赦しを求め得なくなる時が来ることからも明らかでしょう。ですから神様に求めたらよいのです。「わたしたちの負い目を赦してください」と。
しかし、そこには一言加えられております。「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。イエス様は、父の赦しと私たちの赦しを結びつけて語られるのです。14節以下に改めて語られていますでしょう。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(14‐15節)。
実に厳しい言葉です。しかし、ここで改めて考えてみる必要があります。そもそも私たちは「父よ」と呼びかけて祈るのですが、それは当たり前のことでしょうか。それは本来、あり得ないことでしょう。私たち人間はどれほど神様に背いてきたことか。私たちがまことの神の御前に出るならば、裁きを恐れておののかざるを得ないはずです。最終的にこの世界を正しく裁く権威をお持ちである御方に対して、イエス様がしていたのと同じように「アッバ、父よ」と親しみを込めて呼びかけることなど、本来できようはずもありません。
しかし、そのあり得ないことが許されているのです。それはイエス様が「こう祈りなさい」と言ってくださったからです。イエス様だから言うことができたのです。なぜならこの御方こそ、神の赦しを携えて来てくださった御方だからです。罪ある人間がなお神の御前に出て「父よ」と呼ぶことができるために、何が為されなくてはならないかを、イエス様はよくご存じでした。それは父の御心に従って、イエス様御自身が罪の贖いの犠牲となることでした。十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださることでした。神を「父よ」と呼べるのは、既に神が赦しの恵みをもって私たちを神の子どもたちとして受け入れてくださっているからなのです。その大いなる赦しの中にある子どもたちとして、私たちは互いに赦し合って生き、また日々の罪の赦しを神に求めながら生きていくのです。
そして、さらに主は「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈りなさいと教えてくださいました。「罪を赦してください」という祈りが真剣になされるようになるならば、また罪への誘惑の問題も切実に感じられるようになってくるのでしょう。「悪い者から救ってください」。この「悪い者」とは悪魔のことです。すべてのものは悪魔の誘惑となり得えます。富も貧しさも、成功も失敗も、恋愛も失恋も、健康も病気も、私たちの人生に起こるすべてのことは、悪魔の誘惑となり得るのです。私たちは信仰者として生きていけることを、当たり前のことと考えてはなりません。イエス様が教えてくださったように、父の助けを求めるべきなのです。誘惑に陥るのは、祈らぬことの結果であるとも言えるのです。
父を愛する子どもたちとして
さて、このように私たちは、父に愛されている子どもたちとして、必要なものはすべて天の父に求めながら生きていったらよいのです。そのように、私たちの信仰生活とは、父に愛されている子どもたちとして、父なる神に依り頼んで生きていくことです。
しかし、「父に愛されている子どもたち」として生きるだけでなく、「父を愛する子どもたち」として生きていくことは大事なことです。子どもが父を愛する時、子どもは父の関心事を共有するようになります。父の関心事が子どもの関心事ともなります。父の望んでいることを子どもも望むようになります。父がどのようなことを考えているのか、父を愛している子どもなら、もっともっと知りたいと願うようになるでしょう。そして、父が願っていることが実現することを、子どもも願うようになるでしょう。そのような親子の関係こそ、イエス様が地上において私たちに見せてくださった関係であり、私たちがまたそこに招かれている関係なのです。
そこで、父を愛する子どもたちとして祈る、三つの祈りをイエス様は教えてくださいました。「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(9‐10節)。主の祈りの前半部分です。
「御名が崇められますように。」そのような祈りがなされるのは、もう一方において神の御名が汚されているという現実があるからでしょう。主の御名が神聖なものとされていない。神が神とされていない。むしろ神様は侮られ、軽んじられ、他のものの方がずっと大事であるかのように扱われてきたのです。
「御国が来ますように。」そのような祈りがなされるのは、もう一方において今、現に目にしているのは御国ではない、という現実があるからでしょう。神ならぬものの支配。私たちがこの世に目にしているのは罪と死の支配であり、悪魔の支配です。ですから、「御国が来ますように」と祈ることはまた、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ることでもあるのです。私たちが目にしているのは、神の御心に反することが厳然として行われている世界です。
父の御名が汚され、父の御心に反することが行われているこの世界を見て、父を愛する御子であるイエス様は心を痛めておられたのでしょう。父の御名が崇められ、御心が地上で行われることを誰よりも願っていたのはイエス様だったのでしょう。その御子なるイエス様の心を共にして祈るようにと、イエス様は主の祈りの言葉を私たちに与えてくださったのです。
「このように祈りなさい」とイエス様は言われました。「祈りなさい」ということは、それを実現するのは神様御自身だということです。神様の御名が崇められるようになること、神の御国が来ること、神の救いの御心がこの地上において実現することは、すべて神の御業なのであり、神様御自身の戦いなのです。しかし、父なる神はあえてそれを子どもたちと共に進めようとされるのです。そのように父が御自分の心を共有し、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈る子どもたちを求めておられるゆえに、私たちはキリストによってここに集められているのです。
そのことを思います時に、私たち自身の求めがいかにこの三つの祈りから遠いかをも思わせられます。むしろ信仰生活において私たちが求めているのは、御名とか御国とか御心についてではなくて、私たち自身のことばかりではないか。自分の平安、自分の喜び、充実した人生、楽しい交わり。それらが少しでも欠けると不満を覚えて「なぜですか」と問う。しかし、むしろ問われているのは私たちの側なのです。あなたはいったい何を求めて生きているのか、と。そうです問題は「主の祈り」が自分の祈りになっているか否かなのです。
さて、そのような「主の祈り」を自分の祈りとするためにはどうしたらよいのでしょうか。イエス様が教えてくださった祈りの世界に私たちもまた共に生きるためにはどうしたらよいのでしょうか。イエス様が教えてくださったように、まずは呼びかけから始めましょう。私たちのために十字架におかかりくださったイエス様から「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけの言葉を受け取りましょう。全地の王なる御方を「アッバ、父よ」と呼べるということ、罪ある私が滅ぼされるのではなくて神の子どもとされているという驚くべき事実にまず私たちの思いを向けましょう。そして、神様の大きな憐れみと赦しを思いつつ呼びかけてみましょう。「天におられるわたしたちの父よ」と。