サムエル記下 24:1-25
今日お読みしました話の最後はこうなっています。「主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ」(25節)。これと似た表現が21章14節に出て来ます。「この後、神はこの国の祈りにこたえられた」。21章前半の物語の締めくくりの言葉です。つまり21章前半の物語と今日お読みした物語はセットなのです。
そして、その内側にダビデの家臣の話が二つセットになっていて(21章後半と23章後半)、そのまた内側に「ダビデの感謝の歌」と「ダビデの最後の言葉」とがセットで置かれている。そのような構造になっているのです。
さて、今日お読みしました24章の物語の展開は、現代の私たちには、かなり理解困難なものと思えます。まず、主がダビデに対して「人口を数えよ」と誘われたにもかかわらず、ダビデが行うとそれに対して罰を加えられたこと。しかも、その罰を受けたダビデが死ぬのではなく、まったく無関係な七万人が死んだこと、などです。これを私たちはどう理解したら良いのでしょうか。
この物語を正しく理解する上でまず大事なことは、この物語そのものの形を見ておくことです。実はこの話は単純ではないのです。実は大きな枠組みが一つあり、その中にもう一つの話が組み込まれているのです。それがこの話の深さとなっているのです。
まず大きな枠組みを見ておきましょう。ここを読んですぐに気づきますのは、後半の、祭壇に関する記述が異常に長いということです。この祭壇は、「エブス人アラウナの麦打ち場」に築かれたことが繰り返し語られています。このように、特定の麦打ち場が語られているということは、取りも直さず、後々の時代の人もその場所を良く知っていたことを意味します。
しかも、それはダビデが正当にお金を払って買い取った場所であることが書かれています。つまりそれは後々までダビデ家に属する土地となったということです。それはいったいどこなのか。歴代誌を見ますと、次のように書かれています。「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデに御自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった」(歴代下3:1)。つまり、それはソロモンの神殿が建てられた場所なのです。つまり、この物語の大枠は、「そもそも神殿が建てられていた場所はいかなる場所だったのか」を伝える物語だということです。
その場所は、預言者ガトを通して主が指示した場所だったわけですが(18節)、なぜそこが指示されたかと言いますと、それは御使いが立っていた場所だったと説明されているのです。「御使いはその手をエルサレムに伸ばして、これを滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言われた。『もう十分だ。その手を下ろせ。』主の御使いはエブス人アラウナの麦打ち場の傍らにいた」(16節)。
主が「手を下ろせ」と言われた。ストップをかけられた。それは神の憐れみです。エルサレムにその資格があるからではなく、単純に神の憐れみであった。その憐れみが現された場所、それが「エブス人アラウナの麦打ち場」であった。つまりここに書かれているのは「ソロモンの神殿が建てられている場所は、それ自体が神の憐れみを証ししている場所なのですよ」という話なのです。
そして、もう一つ大事なことは、この話が「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった」(1節)という言葉で始まっているということです。「再び」と言うのは、先ほど申しましたように、直接的には21章前半の物語に続くからです。原文では、もっとはっきりとこのつながりが示されています。このあたりは丁寧に読まなくてはなりません。ここに出てくる「神の怒り」そのものは、ダビデが行ったことによって引き起こされたのではないのです。この怒りについては、特に何も説明はされていない。しかし、何らかの罪が神の怒りを引き起こしたということです。そこから話は始まる。その《結果として》、「主は、『イスラエルとユダの人口を数えよ』とダビデを誘われた」という話の流れになっているのです。
要するに、こういう話なのです。理由は明らかにされていないけれども、神の怒りがあった。その怒りによって疫病がもたらされた。しかし、エルサレムは災いを免れた。それは完全に神の憐れみによってであった。その憐れみの場所に祭壇が築かれ、祈りが献げられた。疫病は完全に止んだ。神殿が建てられたのは、そのような場所だったのだ。――これが話の大枠なのです。
そのような大枠の中に、もう一つの話が組み込まれているのです。ダビデの人口調査の話です。そして、神の怒りとしての災いは、いわば《ダビデの罪に対する裁き》という形において実現されることになる。そこにこの物語の深さがあるのです。
「主は…ダビデを誘われた」と書かれています。この記述に抵抗を覚えるのは、現代人でも昔の人でも同じでありまして、歴代誌においては少し書き換えられています。「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った」(歴代上21:1)となっているのです。どちらでも同じことです。要するに「主が誘われた」というのも、実際には、サタンがダビデを誘惑することを、主があえて許された、ということですから。事実、ダビデの王国が確立していった時に、その国力、特に軍事力を把握したいというのは、ダビデにとっては自然な心の動きだったのだと思います。しかし、そこにサタンの誘惑があったのであり、主はそれをあえて許されたのです。
ダビデはヨアブに命じ、ヨアブは不本意ながらもダビデの命令に従い、イスラエルの民を数えます。そして、「剣を取りうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万」であることを報告します。しかし、このことはダビデの心の呵責となりました。そして、「わたしは重い罪を犯しました」と主に告白します。かつて盟友ヨナタンは言いました。「主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」(サムエル上14:6)。しかし、今や自分は兵の数に依り頼み、その数を一生懸命に数えている。その間違いに気がついたのです。
そのダビデに対して、預言者ガトを通し、主は三つの災いから一つを選ぶように求めます。ダビデは三日間の疫病を選択します。「主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない」というのがその理由でした。その結果については、先に見たとおりです。実際、主の慈悲が現れ、エルサレムは災いを免れます。エルサレムにいたダビデの家も災いを免れたのでした。
さて、ここで重要なことは、第一に、先にも言いましたように、主の怒りと裁きは単にダビデの罪に対するものではなかったということです。ダビデの行為に先立って神の怒りがあるのです。しかし第二に重要なことは、ダビデ自身はこの災いを自分に対する裁きとして受け止めている、ということです。それゆえに、また、自分が残されたことは、神の慈悲以外の何ものでもないことを認識しているのです。それは17節の言葉からも分かります。第三に、そのように憐れみを知る者こそが、祭壇を築き、礼拝し、祈るようにと導かれたのだ、ということです。そして、その場所こそ、祈りの家の建てられる場所となったのです。それは神殿が破壊された後に残された人々に大きな意味を持っていたことでしょう。あの場所は神の憐れみの場所だった。だから再びあの場所に神の憐れみが現されるに違いない。そして、神の憐れみによって再び礼拝する時が来るに違いない、と。そして、事実それから数百年後、神の憐れみが完全に現されたのです。御子が十字架にかけられることにおいて。
2026年10月7日水曜日
祈祷会用:サムエル記下 24:1~25
登録:
投稿 (Atom)