ヨハネによる福音書 17:20-26
今日の福音書朗読ではキリストの祈りの言葉が読まれました。場面は最後の晩餐です。この祈りを捧げて、イエス様は弟子たちと共に外に出て行きます。その先に何が待っているかを主はご存じでした。向かった先のゲッセマネの園には、イスカリオテのユダが兵士たちを率いてやってくるでしょう。そして、主は捕らえられることになり、裁きを受け、鞭で打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架にかけられることになります。主はすべてをご存じでした。その意味で、今日お読みした祈りの言葉は、御自分の死を前にした祈りの言葉に他ならないのです。
祈りの言葉そのものは17章全体に及んでいますが、はっきりと三つの部分に分かれます。第一は1節から5節までです。そこで主は御自分のために祈ります。第二は6節から19節までです。そこで主は弟子たちのために祈ります。第三は今日お読みした20節から26節までです。そこで主は、教会の宣教によって御自分を信じるようになるすべての人々のために祈ります。
彼らもわたしたちの内にいるように
そこで主はこう祈り始められました。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。彼らというのは、直接的にはキリストの弟子たちを指しています。イエス様は御自分の弟子たちのことをよくご存じでした。彼らの弱さもご存じでした。彼らが御自分を見捨てて逃げてしまうこともご存じでした。ペトロについては既にこう言っておられます。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:3)。
しかし、主はそのような弟子たちを、それでもなお信頼しておられました。そして、彼らに宣教の働きを託されました。いや、それだけではありません。主は既に、彼らの言葉を通してキリストを信じる人々の群れを見ておられるのです。心の目で見ておられるのです。それゆえに、主はやがて主を信じることになる多くの人々のために祈られたのです。
そして、主がその時、心の目をもって見ておられたことは、やがて現実となりました。弟子たちの言葉によって、キリストを信じる人々がこの世に次々と生み出されていきました。なんと、それから二千年後の今日、キリストを信じる者たちは、この日本にも存在しているのです。確かにキリストを信じる私たちがここにいるのです。あのときのイエス様の祈りは、ここにいる私たちのための祈りでもあったのです。
主は私たちのために何を祈っておられるのでしょう。キリストの祈りは次のように続きます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)。
キリストは私たちが一つとなることを願い、祈っておられます。「すべての人を」と主は言われました。この言葉はあらゆる範囲に及びます。主はこの地球上のすべての教会が一つとなることを願っておられます。主はこの日本のすべての教会が、すべてのキリスト者が一つとなることを願っておられます。主はこの頌栄教会が一つとなることを願っておられます。主は異なるお互いが一つとなることを願っておられます。
一つとなるとはどういうことでしょうか。主は「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」と言われます。単に「みんな仲良くするように」ということではなさそうです。
父は子の内に、子は父の内に。そこに言い表されているのは、イエス様と父なる神との交わりです。愛と信頼の絆で結ばれた親子の関係をイエス様は見せてくださいました。そして、その交わりの中に私たちもまた加えられることを主は願っておられるのです。「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」とはそういうことです。イエス様が見せてくださった親子の関係の中に、神の家族の中に、私たちもまたいるようにしてくださいと主は祈られたのです。そして、それこそが、「一つとなる」ということなのです。
「すべての人を一つにしてください」。それは共に天の父の子供たちとして生きるように、ということです。共にキリストの兄弟として生きるように、ということです。共に神の家族として生きるように、ということです。そのように一つとなるのです。
ですからそのように一つとなっている目に見える姿は、同じ父に向かって一緒に祈る姿なのです。一緒に礼拝する姿なのです。互いに異なる者たちが、互いに相容れぬものを持っているかもしれない者たちが、様々なことにおいて互いに意見の異なる私たちが、それにもかかわらず同じ父の子供たちとして、共に神に祈りながら、共に神を礼拝しながら生きて行く。それこそが「一つにしてください」というイエス様の祈りの答えなのです。
完全に一つになるために
そして、主はこのことを別な言葉をもって次のように表現しています。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(22‐23節)。
「あなたがくださった栄光」とはイエス様が持っておられた神の子としての栄光です。イエス様は、その栄光を私たちにも分かち与えてくださいました。それは、私たちもまた、神の子どもたちとして生きることができるということです。主は、私たちもまた、「天にまします我らの父よ」と共に祈って生きる者としてくださいました。それは「彼らも一つになるためです」と主は言われます。
そして、そのように同じ父を仰いで一つとなっている姿こそが、キリストをこの世界に証しするものとなるのです。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)と主は言われました。また、「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(23節)と主は言われるのです。
確かに、互いに異なる者たちが、同じ天の父を仰いで共に礼拝している姿を通して、福音は伝えられてきたのです。共に礼拝する姿が、今日に至るまで途絶えることがなかったからこそ、私たちもまたキリストを知ることができたのです。その意味で、私たちがここに存在していること自体が、既にキリストの祈りの答えであるとも言えるのです。
彼らも共におらせてください
さらにキリストの祈りはこのように続きます。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(24節)。
最初に申しましたように、この祈りは、死を前にしたキリストの祈りでなのす。主は、この世から父のもとへ帰る御自分の時が来たことを知っておられるのです。そこで、主はこう祈られました。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」
私たちは、この世において、同じ父に祈る者とされました。この世において、同じ父の子どもたちとして、共に礼拝する者とされました。この世においてイエス様の兄弟姉妹とされ、互いに兄弟姉妹とされました。そして、その絆が、この世の生を終えた後もなお続くことをイエス様は願っていてくださいます。「わたしのいる所に、共におらせてください」と。
私たちが願う以前に、イエス様が願っていてくださいます。私たちが祈る前にイエス様が祈っていてくださいます。そして、こう祈られたイエス様は、私たちの罪を贖うために十字架へと向かわれたのです。そこに死を越えた希望を私たちが持ち得る根拠があります。私たちもまた、「この世において共に祈りを捧げてきた父のもとに帰るのだ。イエス様がおられるところに私たちもまたいることになるのだ」と言い得る根拠があるのです。
「それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」と主は言われました。主は必ず見せてくださいます。そこにおいて、私たちは神の子の栄光を目の当たりにすることになるのです。そして、その時私たちは知ることになるのです。その御方の兄弟とされているということ、神の家族に迎え入れられているということが、どれほど栄光に満ちたことであるのかということを。
この祈りの直前に、主は「あなたがたには世で苦難がある」と言っておられます。確かにそうなのでしょう。しかし、そのようなこの世のただ中において、私たちは既に愛されている神の子どもたちとして、共に礼拝を捧げる者とされているのです。既にどれほど大きな恵みにあずかっていることか。私たちは恐らく、まだ本当のところを知りません。しかし、やがて知ることになるのです。神の子の栄光を見る時に、はっきりと知ることになるのです。
2024年10月6日日曜日
「皆が一つになるように」
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