出エジプト記 34:1-17
先週の箇所を振り返っておきましょう。33章に入って語られた主の御言葉において大事なポイントは三つありました。第一は、「約束の地に向けて出発しなさい」ということ、第二は、「あなたの前に使いを送る」ということ、そして第三は、「しかし私自身は、一緒に行かない」ということでした。
約束の地には行けそうです。荒れ野での生活は免れるようです。豊かな土地にも入れます。しかも、その旅は順調に進むらしい。使いが先に行くのですから。宗教の目的が幸いの獲得と苦しみからの解放であるならば、それは得られそうです。しかし、彼らはこの主の言葉を悲しんだのです。「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ」(33:4)と書かれています。どうしてか、主が共に行かれないということは最も不幸なことであると悟ったからです。
しかし、主が共に行かれるならば、そこでは民の罪が問題となります。罪ある民は主が共におられるならば、滅びざるを得ないのです。そこで仲保者であるモーセの存在と執り成しが大きな意味を持つのです。モーセは神と民との間に立って執り成します。そして、33:17において主は、「モーセの願い」のゆえに、共に行くと言われるのです。民に罪がないからではないのです。
こうして、仲補者モーセのゆえに、神は民と共に歩んでくださることとなりました。そこで今日の箇所に入って、主はモーセに言われます。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう」(1節)。主がもう一度「掟の板」を与えてくださるのです。それはすなわち、神と共に生きる具体的な生活を与えてくださるということです。そのこと自体が神の恵みに他なりません。
このことは、シナイ山における出来事にはっきりと表されることになります。モーセはそこで再び「主の名」の啓示を受けることになるのです。「主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。」(5節)。さらに6節で「主、主…」と語られています。これは「ヤハウェ、ヤハウェ」ということです。
そもそも出エジプトにおいて、「ヤハウェ」の名がモーセに啓示されたということは決定的な意味を持っていました。出エジプト記3章において、主が御自分の名前を問われた時、主はこう言われたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(3:14)。それは、単に存在するという意味ではありません。「ヤハウェ」はただ「存在」する神ではなくて、「わたしがいるのだ」と言って共にいる神なのです。
その神がいかなる御方かが、ここでは次のように啓示されています。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(6-7節)。ここではっきり言われているのは、神は「赦しの神」だということです。「共にいる神」は「赦しの神」なのです。逆に言えば「赦しの神」でなければ、「共にいる神」ではあり得ないのです。
ちなみに、その先にこのように語られています。「しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」(7節)。ここでいう「罰すべき者」とは誰でしょうか。単に「罪を犯した者」ではありません。神は赦しと忍耐の神ですから。
この「父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う」という言葉を、主は既に語っておられることを思い起こさなくてはなりません。それは20章において十戒を主が与えられた箇所です。主は言われました。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが・・」(20:5)。つまり、主を否む者のことです。主が赦しと忍耐をもって共に歩んでくださろうとしているのに、その主を否むならば、もはや赦しはどこにもありません。言い換えるならば、その赦しと忍耐を軽んじる者であると言い換えることもできます。ですから、後にパウロもこう言っているのです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(ローマ11:22)。
さて、そのようにして「掟の板」が再授与されることになりました。それはまた、神の赦しは「神の掟なき生活」を意味しないということを意味しています。すなわち、「赦し」を取り違えて、「無律法主義」に陥ってはならないのです。
神は従順を求められます。神と共に歩むとはそういうことです。私が「主」ではないのです。私たちはあくまでも「従」なのです。主が従順を求めるところにおいて、私たちが何を求めているかが露わにされることになります。ただ幸いの獲得と苦しみの除去だけを求める人は、「従順」が求められることを喜びません。しかし、神御自身を求める人は、「従順な自分になりたい」と願い、そうなることを求めるのです。
さて、24章において私たちは神と民とが契約を結ぶ場面を読みました。しかし、この契約を一方的に破ったのはイスラエルの民でした。ですから、この契約は本来破棄されて然るべきものです。しかし、実際には契約が破棄されず、神はなおも共に歩んでくださることとなりました。主はここで「見よ、わたしは契約を結ぶ」(10節)と言われるのです。原文では特にこの「わたしは」という言葉が強調されています。一方的に破ったのは民の方でした。しかし、神御自身がその罪を覆うようにして一方的に契約を結ばれるのです。ここで特に強調されているのは「神の業」ということです。
契約は神の業として結ばれます。この特別な絆は神の御業によって成立するのです。私たちがキリスト者であるということもまた同じであることを改めて思わされます。神は赦しの神であり、その神が一方的に共に歩んでくださり、契約を結んでくださる。そのことは十字架において最終的に完全に明らかにされることとなりました。御子を十字架にかけて罪を贖うほどに、神は赦しの神であり、その神が、御子の血によって一方的に契約を結ばれるのです「これはわたしの血によって立てられる新しい契約である」とイエス様が言われるようにです。
だからこそ、そこでは従順が求められるのです。そして、従順というものは、本来、「信頼」から生まれるものなのです。ですから、これ以降には、とにかく「主に信頼する」ということが求められているのです。しかも、ここで語られていることは、約束の地に入ってからのことであることは重要です。「よく注意して、あなたがこれから入って行く土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。それがあなたの間で罠とならないためである。」(12節)。
荒れ野を火の柱、雲の柱に導かれている時は、「主と共に歩む」ということは目に見える現実であったと言えるでしょう。しかし、「主と共に歩む」というのは、何も荒れ野を旅する時だけでないのです。むしろ、本当に大事なのは、約束の地に「定住」した後なのです。荒れ野での旅をしていない時のことです。
本当に苦しくて、辛くて、神様なしでは生きていけないと思われる時には、一生懸命に祈るでしょうし、神と共に日々歩むというのは極めてリアルなことなのだと思います。しかし、信仰生活は必ずしもそういう時ばかりではありません。人間の力で営んでいけると思える日常、何の変哲もないごく普通の日常においてこそ、そこで「主と共に」歩んでいるということが大事なのです。
まず、そこでは、「これから入って行く土地の住民と契約を結ばないように」(12節)ということが求められています。土地の住民と契約を結んだほうが、問題も生じにくいし、困難も回避できるに決まっているのです。共同体の中にいる時はヤハウェの民として生活し、そして土地の住民との関わりにおいては、彼らと同じように生活していれば摩擦も生じないことでしょう。ヤハウェの神を捨てるわけじゃありません。しかし、他の民とも契約を結んで、同じことをして、彼らの要求にも応えて、そうやっている方が楽に決まっているのです。
しかし、主はそうするなと言われるのです。「主は熱情の神である」と書かれています。これは「ねたみ」とか「嫉妬」を表す言葉です。これは悪い意味ではなくて、夫婦間においては当然のことを指す言葉なのです。例えば、夫が他の女のところに言った時に、「まあ、いいんじゃないでしょうか」と言っていたらやはりおかしいでしょう。ヤハウェは、神の民が完全に「神の」民となることを望まれるのです。完全に御自分のものとすることを望まれる。これは、本当は有り難いことであり、嬉しいことであるはずなのです。「あなたはわたしのものだ」と言ってくださるということですから。それゆえに、私たちもまたその神に信頼して、完全に神のものとして生きることを求める。それこそが、聖書の語っている信仰生活なのです。
2024年7月31日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 34:1~17
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