2024年5月29日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 18:1~27

 出エジプト記 18章1節~27節

 今日の箇所には、「モーセのしゅうとで、ミディアンの祭司であるエトロ」(1節)という人物が出てきます。出エジプト記4章以来、久しぶりの登場ですので、まずこの人物について振り返っておきたいと思います。

 なぜヘブライ人であるモーセのしゅうとがミディアン人の祭司なのか。そのいきさつは出エジプト記2章に出ています。モーセは、もともと人を殺してミディアン地方に逃れてきた逃亡者でした。その彼が、ある井戸の近くで、乱暴な羊飼いたちの手からミディアン人の娘たちを救います。このことをきっかけに、彼女たちの父であるエトロ(またの名をレウエル)という祭司と出会ったのでした。

 モーセはミディアンに留まる決心をし、エトロの娘のひとりツィポラをめとりました。彼らの間に生まれた長男は、ゲルショムと名付けられました。ゲールとは寄留者という意味です。モーセが、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである、と説明されています。もう一人の子供は今日の箇所によればエリエゼルという名前でした。「神は我が助け」という意味です。

 ミディアンの地に、モーセは約40年間、羊飼いとして暮らしていました。しかし、ある日、燃える柴の中から語りかける声を聞くことになります。主との出会いでした。「主」と訳されているのは「ヤハウェ」という言葉です。その意味は「わたしはある」という意味で、神はまさに共にいる神としてご自身を現されたのです。そこで召命を受けたモーセは主から受けた使命を果たすため、エジプトに帰って行くことになりました。

 そのときモーセは、しゅうとのエトロのもとに帰って、「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。まだ元気でいるかどうか見届けたいのです」(4:18)と言いました。主との出会いのことはまだ伝えてはいませんでした。エトロは「無事で行きなさい」と言って送り出します。モーセはツィポラと息子たちを連れてエジプトへ向かいます。それがエトロとの別れとなりました。その後、ツィポラと息子たちだけはエトロのもとに帰したものと思われます。

 そのエトロが出エジプトの出来事を伝え聞きました。彼はさっそく、ツィポラと子供たちを連れてやってきます。それが今日お読みした話です。次のように書かれていました。「モーセのしゅうとで、ミディアンの祭司であるエトロは、神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた」(1節)。

 この「すなわち、主が」という言葉は特に注目に値します。彼はモーセが出会った神、後にイスラエルを通してご自分を現わされ、最終的にイエス・キリストを通してこの世にご自身を啓示される唯一の生ける神「主(ヤハウェ)」のことを伝え聞いたのです。

 そのエトロが神の山に宿営しているモーセのところに来たのです。神の山と言ってもシナイ山ではありません。どこであるのかは不明です。話の流れからすればレフィディムということになります。ともかく、やってきたエトロと安否を尋ね合い、天幕に入って、モーセは「証し」を始めました。いわば家族伝道です。

 モーセは何を語ったのでしょうか。しゅうとが伝え聞いていたこと、すなわち「主」が何をしてくださったかということを話したのです。「モーセはしゅうとに、主がイスラエルのためファラオとエジプトに対してなされたすべてのこと、すなわち、彼らは途中であらゆる困難に遭遇したが、主が彼らを救い出されたことを語り聞かせると」(8節)とある通りです。つまり、モーセはどれほど自分が苦労したかという話をしたのではないのです。自分が労苦してイスラエルの民を導き出したという話をしたのでもありません。「主がなさったこと」を語ったのです。これが「証し」というものです。

 モーセが主のなさったことを伝えたら、エトロはどうしたでしょうか。「エトロは、主がイスラエルをエジプト人の手から救い出し、彼らに恵みを与えられたことを喜んで」(9節)と書かれています。モーセたちが無事であったことを喜んだのではありません。主が恵みを与えられたことを一緒に喜んでくれたのです。そして、こう言ったのでした。

 「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。今、わたしは知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを」(10-11節)。

 こうして異教の祭司エトロは主を知るようになりました。そして、一緒に礼拝し、「共に神の御前で食事をした」と書かれています。エトロにとって、それは名のない神ではなく、イスラエルにおいてご自身を現わされた主なる神に他なりませんでした。

 続いて書かれているのは、そのエトロがモーセに助言したという話です。エトロはモーセのやり方が「良くない」と言いました。これはいわば「入信間もない人の声」のようなものです。外から来て間もない人の方が、大切なことがよく見えているということは確かにあるものです。しかし、普通に考えるならば、エジプトから大群衆を導きだして、ここまでやってきた人に助言や諫言をすることは、そう簡単なことではありません。それは単に彼がモーセの「しゅうと」だからできたということではないでしょう。なぜそれができたのか。それはモーセが語ったことと関係するのです。

 先にも触れたように、モーセは自分がいかに大きなことをして、苦労してここまでやってきたかを語りませんでした。主がなさったことを語ったのです。そこにおいては、モーセはそこではあくまでも一人の人間モーセ、弱さを持ち、間違いも犯し得るモーセなのです。いかなる仕方においても神格化されることはありません。エトロは、そのようなモーセであるからこそ、語ることができたのです。

 また、モーセもそのような認識であるから、いわば入信間もない人の助言に耳を傾けられたとも言えます。事もなげに書かれていますが、これは共同体において、あるいは指導者にとって、しばしばとても難しいことなのでしょう。特にその歴史が長くなればなるほど、難しいこととなります。「ここまでどれだけ苦労してきたと思っているのだ。何にも分からないくせに」というようなことが自然に起こり得るからです。しかし、共同体にとってはそれこそが大きな問題となるのです。

 エトロが言ったのは、仕事を分担しなさいということでした(22節)。しかし、それは単にモーセの重荷を軽減するということではありませんでした。モーセが本当の意味で「任に堪える」(23節)ようになるためです。それは持ちこたえるということだけではなく、本当になすべきことを行えるということです。

 なすべきこととは何か。エトロはこう言いました。「あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい」(19、20節)。ここで「民に代わって」とありますが、これは「民のために」と訳しても良い言葉でして、むしろそちらの方がよいかもしれません。民のために神の前に立つこと、それはすなわち祈ることです。

 人々の前に立つことよりも、まず神の前に立つことだとエトロは言ったのです。それは異教世界ではあっても、「祭司」をしてきた者だからこそ口にした言葉だったのでしょう。そして、その上で人々には「掟と指示」を示すのです。それは神の言葉です。その「任に堪える」ようになるために、エトロの助言は極めて大きな意味を持つものだったのです。


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