2024年4月28日日曜日

「霊の結ぶ実は愛である」

ガラテヤの信徒への手紙 5:16‐26

律法によって歩むこと

 今日の第二朗読で読まれたガラテヤの信徒への手紙には、「霊」と「肉」という言葉が繰り返されていました。ここで語られている「肉」とは「肉体」のことではありません。この「肉」とは、私たち人間が共通して持っている罪深い性質のことです。

 動物園の虎を思い描いてみてください。その虎を檻から出して町中に野放しにしたら、恐らく大変なことになるでしょう。虎はその本能にまかせて何をしでかすか分かりません。それと同じように、私たち人間の内には、何の制約もなく野放しにしたら、それこそ何をしでかすかわからない「わたし」がいるのです。それが「肉」と表現されているものです。

 実際、「肉」を野放しにしたら「肉」は何をしでかすのか、その肉に従って生活したら、どのようなことが起こり得るのか、そのリストが19節に挙げられています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(19‐21節)。

 ここに書かれていることは、一つ一つ特に説明はいらないでしょう。たしかにこれが「肉の業」だと言えば、本当にそのとおりだと思います。そして、私たちも分かっているのです。そのような「肉」が野放しにされて、自由にその「肉の業」を行うようであってはならないし、この「肉」に従って生活してはならないということを。そのように生きて絶対に幸せにはならないし、それどころか、それは滅びへと向かう生活ともなる。そんなことは皆が知っていることです。。

 ですから、虎を鎖でつなぎ止めたり、檻に入れたりするように、私たちも「肉」をつなぎ止めたり、押さえ込もうとするのです。ユダヤ人にとりましては、まさにその機能を果たしていたのが「律法」、すなわち宗教的戒律だったのです。律法を持っているということは実に安全なことだったのです。それを遵守するということは身を守ることでもあったのです。

 それはユダヤ人でない私たちであっても、ある程度理解できることです。例えば様々な規則や法律、次々に定められる条例などを考えてみてください。確かに、様々な規則や国家の法律は、「肉」が野放しになって肉の業を行わないための鎖となり、檻となっているのです。もちろん、ただ規則があるからというだけで、私たちは自らを規制するわけではありません。もう一方において、私たちは多かれ少なかれ道徳的・倫理的な意志を持っているわけです。私たちは自分の意志の力をもってある程度、肉を押さえ込んでいるわけです。

 そのようにユダヤ人たちは、与えられているモーセの律法によって、また律法を遵守して生きようとする意志によって、肉の活動をつなぎ止め、あるいは封じ込めてきたのです。少なくとも彼らはそう思っていたのです。ですから、当然のことながら、キリストを信じた後でも、やはり律法を遵守することは大事なことだと考えるユダヤ人クリスチャンは少なくなかったのです。いや、教会の中にはユダヤ人以外の異邦人クリスチャンもいるのだから、彼らにも律法を守らせるべきだと考える人たちがいたのです。

 そのように律法が重んじられ、律法の遵守によって神の御前に義しい者となろうと思っている人が少なからずいた教会、それがこの手紙の宛てられているガラテヤの教会でした。そしてそのような律法を遵守して生きようとする意志の力によって「肉」は確実に押さえ込まれている教会である・・・はずでした。

 しかし、実際にはどうだったのでしょう。今日お読みした箇所の直前にはこんなことが書かれています。「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」(15節)。今日の箇所の直後にもこんなことが書かれています。「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」(26節)。今日の箇所は、そんな言葉に囲まれているのです。

 変な話だと思いませんか。敵意や争いやねたみなどは、それこそ「肉の業」であったはずです。しかし、律法によって、人間の意志の力によって、外側から肉を押さえ込もうとしていった時に、かえって「肉の業」が活発に表に現れる結果となっていたというのです。

 いや、「変な話だと思いませんか」と言いましたが、実はこのようなことは、私たち自身、身近なところでいくらでも経験していることだろうとも思います。規則によって、あるいは義務を課すことによって秩序を保とうとする人たち、人間の意志の力によって正しくあろうとする人たちが多くなればなるほど、そこには争いと対立が起こりやすくなるのです。そねみやねたみ、怒りが支配するようになるのです。また、隠れた不道徳、覆い隠されたみだらな行いもまた増えていく。

 パウロにとってそそのようなことは自らの経験から分かり切っていたことなのです。パウロ自身、かつてファリサイ派に属し、律法を落ち度無く守ってきた人でしたから。それは福音書を読んでも分かります。イエス様の周りに登場するファリサイ派の人たちの姿、どうですか。文句ばかり言っている人たち。怒りと殺意に燃えて、イエスを亡き者にしようとしている人たち。これが神様の望んでいる姿であろうはずがない。

 確かに「肉」を野放しにしてはならないのです。しかし、律法によって、規則によって、人間の意志の力によってこれをつなぎ止めておこうとすると、どうしてもそこは喜んで互いに愛し合って生きる世界にはならなくて、怒りをもって互いに裁き合う世界となり、また表面だけきれいに取り繕う世界になってしまうのです。そのような形で、かえって「肉の業」が現れるようになってしまう。ならば一体どうしたらよいのでしょう。

霊に従って歩むこと
 そこでパウロは言うのです。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(16節)と。律法によるのではない、しかも肉を野放しにするのでもない、もう一つのあり方がある。それは霊の導きに従って歩むことである。そうパウロは言っているのです。

 ここで言われている「霊」とは、人間の霊のことではなく、神の霊、聖霊のことです。パウロが語っているのは、律法を遵守して自分の意志の力によって肉を克服しようとする生き方に対して、ひたすら聖霊の導きを求める生き方。言い換えるならば、生ける神との親しい交わりに生き、神の導きによって生きる、という生き方です。

 さて、教会の暦においては、聖霊降臨祭が近づいてきました。それは、今からおよそ二千年前の一つの出来事に由来する祭りです。復活したキリストは弟子たちにこう言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。そして、弟子たちはどうしましたか。ひたすら聖霊が降るのを待ち望み、祈り求めました。そして、彼らが集まって祈っているところに聖霊が降りました。その出来事を記念するのが「聖霊降臨祭(ペンテコステ)」です。今年は5月19日です。

 あの日、天から降った聖霊、神の霊は、今もこの地上において生きて働いておられます。そして、キリストを信じる者の内に住んでくださいます。ですから、私たちは信仰生活を、ただ良い教えを学んでそれを実践していくことであるかのように考えてはなりません。私たちはただキリスト教的な規範によって生きるのではなく、聖霊によって生きるのです。私たちは生ける神の霊が私たちの内に宿り、私たちの心と体と生活を導いてくださることを信じ、神と共に生きるのです。

 私たちが神と共に生き、聖霊の導きを求めて生き始めると、一体何が起こってくるのでしょう。17節以下にこう書かれているとおりです。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(17節)。

 いわば私たち自身が戦場となるのです。肉と霊との戦いの場となるのです。私たちの内には葛藤が生じます。それまで肉に従って喜んで行っていたことが苦しみとなります。悲しみとなってまいります。キリスト者となった後に、自分の罪深さに悩み、涙を流すようになることを驚いてはなりません。それは当然のことなのです。肉に対立する聖霊が来られたのですから。それは必然的なプロセスです。そして、それは幸いなことなのです。そのプロセスを経て、肉は支配力を失い、肉の望むところに反する聖霊が支配するようになるのです。

 それは律法のように外側から課せられた変化ではありません。神が聖霊によって内側から起こされる変化です。そのような神による内的変化を、パウロは「霊の結ぶ実」と表現しています。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(22‐23節)。特に、肉については「肉の業」と言われていたのに対し、霊については「霊の結ぶ実」と語られていることに注意してください。実は私たちが作るべきものではなくて、《実る》ものです。実というものは命から生ずるのです。

 「霊の結ぶ実は愛である」と書かれています。私たちは、何らかの規範や規則に従うことによって、愛の人になることはできません。さらに「喜び、平和」と続きます。人間の力によって喜びと平和に満ちた人になることはできません。寛容以下のすべての事柄についても、同じことが言えます。これらは神と共に生きるとき、信仰によって生きるとき、命の現れとして生じるものなのです。聖霊が私たちの内に結んでくださる実なのです。

 リンゴの実を得るために、一生懸命にリンゴの実自体を「作ろう」とするならば、それは愚かなことです。リンゴの実はリンゴの木に実るものだからです。ですから、大切なことは、リンゴの木を育てることです。同じように、私たちにとって大切なことは、私たちの力によって肉を克服して「愛、喜び、平和…」を私たちの人生に作り出そうとすることではないのです。信仰生活の木を丁寧に育てていくことなのです。ひたすら神を求め、聖霊の導きを求め、神と共に生きる生活を形作っていくことなのです。「霊の導きに従って歩みなさい」とは、そういうことです。

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