2024年3月31日日曜日

「新しい命に生きるために」

マタイによる福音書 28:1-10
ローマの信徒への手紙 6:3-11

あの方はここにはおられない
 あの日、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行きました。しかし、そこで彼女たちは驚くべき言葉を耳にします。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(マタイ28:5-6)。それが彼女たちの耳にした言葉でした。

 「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが…」。そうです。そのとおりです。墓に行った彼女たちが求めていたのは、「十字架につけられたイエス」でした。遺体として墓に納められているはずのナザレのイエスでした。彼女たちは、死んだイエスに会うために墓に来たのです。他の福音書によるならば、彼女たちが手にしていたのは、遺体を処置するための香料でした。彼女たちは、死んだイエスの遺体に香料を塗るために墓に行ったのです。

 イエス様が処刑された日は金曜日でした。翌日は土曜日、すなわちユダヤ人の安息日です。なんとか安息日に入る前に埋葬を済ませておかなくてはなりませんでした。ユダヤ人の一日は日没と共に始まります。イエス様の埋葬は急を要しました。アリマタヤ出身の金持ちであったヨセフという人がイエスの遺体の引き取りをピラトに願い出ました。彼の求めは聞き届けられ、岩に掘ったヨセフ所有の新しい墓に遺体は葬られることになりました。しかし、十分な時間がありません。とりあえず亜麻布に遺体を包み、墓に納めるところまでは済ませませしたが、香料を塗る時間はありませんでした。マグダラのマリアともう一人のマリアは心を痛め、安息日が明けたら香料を塗って遺体の処置をしたいと願って遺体が納められた墓を見つめていたのです。

 日曜日の朝、墓に向かっていた彼女たちは生前のイエスを思い起こしていたことでしょう。あの御方の語られた言葉。あの御方のなされた愛の業。あの御方は死んで過去の人になってしまったけれど、その生き様と教えとは今も心の中に残っています。あの御方は過去の人になってしまったけれども、これからもその教えは生き続けるでしょう。私たちはその教えに従って生きていきましょう。そのような決意を胸に、彼女たちは墓に向かったのかもしれません。これからもあの御方の墓を度々訪れましょうね。そこであの方のことを思い起こして、その教えを決して忘れないようにしましょうね、と。

 しかし、あの婦人たちが墓に着いた時、そこに遺体となったイエス様はいなかったのです。過去の人となったナザレのイエスなど、そこにはいなかったのです。そこで彼女たちが聞いたのはこのような言葉でした。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。あの方はここにはおられない。墓の中にはおられない。死者の中にはおられない。そこから既に歩み出してしまっている。復活したイエス・キリストは死の扉を打ち破って、永遠に生きておられる方として、歩み出しておられる。――これが今日お読みした福音書が伝えていることです。

 ですから、教会は決してイエスを過去の人のひとりとして伝えてこなかったのです。教会はイエス・キリストについて、「あの方は死んだけれどもその教えは今も生きている」というようには伝えてこなかったのです。そうではなくて、「主はよみがえられた」「イエスは生きておられる」と伝えてきたのです。

 キリスト教の歴史における最古の信仰告白の言葉は「イエスは主である」(1コリント12:3)だと言われます。「イエスは主であった」ではないのです。あくまでも「イエスは主である」。現在の主として伝えてきたのです。実際、教会の祭りとしてはクリスマスが良く知られていますが、クリスマスよりも復活を祝う「復活祭」の方がずっと古いのです。そもそも日曜日に礼拝を行うのは、それがキリスト復活の日だからです。日曜日には、過去の人イエスではなくて、復活して永遠に生きておられるイエス・キリストを思って、今も毎週ここに集まっているのです。

新しい命に生きるため
 あの御方は過去の人ではなく現在の主です。今ここにいる私たちを愛し、私たちを救ってくださる救い主です。私たちが今ここに座っているということは、既に復活の主が私たちの人生に関わっていてくださるということでもあるのです。

 しかし、復活されたキリストを最も鮮やかに指し示しているのは、この後に行われる「洗礼式」であり「聖餐式」です。特に洗礼式については、今日の第二朗読において次のように語られていました。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:3‐4)。

 この言葉などは、それこそキリストは生きておられるという信仰なくしては、まったく意味をなさないでしょう。洗礼は何を意味しているのか。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」と聖書は語っているのです。洗礼は単なる形式的な儀式などではありません。もしそうならば遠の昔に失われてしまっているに違いありません。しかし実際には、教会は、洗礼を二千年の長きに渡り、行ってきたのです。時には多くの殉教者の血が流される中で、教会は命がけでこれを行い続けてきたのです。何のために。「キリスト・イエスに結ばれるため」。復活して生きておられる救い主と結ばれるためなのです。

 少し細かいことを申し上げます。「キリスト・イエスに結ばれるため」と翻訳されていますが、この翻訳は事柄の一面を表しているに過ぎないのです。原文には「キリスト・イエスの中へ」と書かれているのです。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」は、直訳するなら「キリスト・イエスの《中へ》バプテスマされた」となるのです。

 変な日本語です。しかし、イメージは思い描けるでしょう。「キリスト・イエスに結ばれる」のですが、それは「キリスト・イエスの中へ」という形でキリストに結ばれるのです。「キリスト・イエスの中へ」。そのように、いわば自分自身をキリストの中に投げ込んで沈めてしまう。そのように自分自身を完全にキリストにゆだねてしまう。それがキリスト・イエスに結ばれるということです。それがキリスト・イエスを信じる信仰です。その目に見える形が洗礼なのです。

 自分自身を投げ込んで完全にゆだねてしまえる。考えてみれば、それは何よりもありがたいことです。それはそうでしょう。世の中にやっかいなものは数あれど、一番やっかいなのは他ならぬ自分自身ですから。幼い子どもならいざしらず、ある程度長く生きていれば、自分が決して正しい人間でないことは分かります。自分の汚さや醜さに嫌気がさすこともあるでしょう。正しく生きようと思う人ならなおさら、正しく生き得ない自分自身であることは骨身に染みて分かるものです。一生の間には幾度もそんな自分を葬ってしまいたいと思うこともあるのでしょう。

 しかし、そんな自分を――私たち自身の手に余るそんな自分を――丸ごとゆだねることのできる御方がいてくださる。そんな自分を丸ごと受け取ってくださる御方がいてくださる。それがイエス・キリストなのです。

 イエス・キリストについて、あの婦人たちが聞いた言葉はこうでした。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない」。私たちが、やっかいな自分自身を安心してゆだねることができるのは、その御方が「十字架につけられたイエス」であるからです。

 その御方は、私たちの罪のために十字架で死んでくださったキリストです。私たちの罪を代わりに背負って死んでくださったキリストです。私たちの本当の苦しみが、他ならぬ私たち自身であり、私たちの罪であるならば、そのどうにもならない自分をゆだねることができるのは、この御方以外にはありません。

 このイエス・キリストの中において、イエス・キリストに起こったことが私たち自身にも起こるのです。すなわち、イエス・キリストが死んで葬られたように、私たちもまた葬られるのです。葬ってしまいたかった私たち自身の葬りが起こるのです。その意味で洗礼式は目に見ることのできる葬りの式でもあります。もちろん、葬りで終わりではありません。そこから新しく始まるのです。キリストが葬りで終わらなかったように。そこから新しい命に生き始める。その意味で洗礼式は目に見える誕生の式でもあります。

 そこから新しい生活が始まります。キリストと共に生きる新しい生活が始まります。それを信仰生活というのです。そのキリストは過去の人ではありません。教えだけが今も生きているというのではありません。日曜日には、過去の人イエスではなくて、復活して永遠に生きておられるイエス・キリストを思ってここに皆が集まります。今、私たちがここに身を置いているのは、そのような新しい生活の目に見える具体的な一場面に他ならないのです。


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