2023年3月29日水曜日

祈祷会用 ヨハネの手紙一 5:16~21

ヨハネの手紙一 5:16‐21

 前回お読みしたところを少し思い起こしたいと思います。

 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」そう書かれていました。そして、永遠の命を持っているということは、ただ死んだ後や終末にのみ関わるのではありません。そうではなくて、これは今のことに関わっている。すなわち永遠の命を与えられているということは神との交わりが与えられていることであり、神の子供として生きることに他ならないからです。私たちは既に神の子なのです。

 ですから、その後に祈りの話が出て来ます。私たちは神の子供として、父に大胆に祈ることができるのです。そして、御心に適った願いは神が聞き入れてくださる。ならば本当に大事なことは、父の御心を知る子供になることなのです。父の願いを自らの願いとして生きる子供になることなのです。そのような子供であるならば、もはや何も心配する必要はない。父が聞き入れてくださるからです。聞き入れられた祈りの応えが地上に現れるのが、たとえ将来においてであったとしても、御心に適っていることさえ知っているならば、「ああ、既に聞き入れていただいているんだ!」という安心をもって待つことができる。「神に願ったことは既にかなえられていることも分かる」とさえヨハネは言うのです。

 さて、そのような御心に適った願いの代表として挙げられているのが、「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」(16節)ということです。ここに「死に至らない罪」という言葉が出て来ます。後には「死に至る罪」という言葉が出て来ます。そのことについては後で触れるとしまして、まずここで考えなくてはならないのは、とにかく「罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」と書かれていることです。

 実際、どうでしょう。私たちが「祈り」とか「願い」ということを考える時、真っ先にこのことが出て来ますか。これを書いているヨハネは、「神に願う」ということを考える時、真っ先にこのことが出て来る、そういう人だったということです。ヨハネにとって、祈りとはまず罪を犯す誰かのために執り成し祈ることだったのです。

 「罪を犯している兄弟を見たら」というのは、罪を犯している現実の目撃の話です。その時にどうするのか、という話です。そこでまず為すべきことは、神に代わって裁くことではなくて、神に願うことだ、というのです。その人が裁かれて滅びることを求めるのではなくて、人が悔い改めて赦しを得、命を得ることを願うことなのです。そうするならば、「神はその人に命をお与えになります」というのです。

 つまりそれは神の御心に適う願いだということです。神は人を滅ぼすことを願ってはおられない。人が永遠の命に生きるようになることを願っておられるのです。その願いを、私たちもまた共有することを願っておられるのでしょう。私たちが願い、神がそれを実現するという形で、罪を犯した人が命を得ることを望んでおられるのです。なぜなら、それこそまさに主が愛してくださったように互いに愛し合うという交わりの実現に他ならないからです。互いに愛し合うということは、互いに赦し合い、互いに罪を執り成し合うということと不可分のことなのです。そのようにして、罪が死に至るものでなくなる。これが「死に至らない罪」です。

 しかし、もう一方で「死に至る罪があります」とヨハネは語るのです。それは明らかに「もはや赦されることのない罪」ということであり、「滅びに至る罪」ということです。このように書かれていますと、私たちはどうしても「死に至る罪とは何だろう」と考えてしまうわけでしょう。しかし、それはあえて言うならば「死に至らない罪」というのが標準で、「死に至る罪」というのは、何か特別な悪いことであるかのように考えているわけです。しかし、そこで私たちは立ち止まって考えてみる必要があるのです。本当に「死に至らない罪」の方が標準なのでしょうか。そうではなく本来すべての罪は「死に至る罪」であるはずなのではないでしょうか。パウロが「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)と語っているとおりです。

 それにもかかわらず私たちの罪が赦されて命を得られるのは、ひとえにイエス・キリストによる罪の贖いのゆえなのです。「死に至らない罪」があり得るのは、イエス・キリストのゆえなのです。私たちは罪の赦しを得られることを、当たり前のことのように思ってはならないのです。悔い改めたのなら赦されて当たり前だろうなどと思ってはならないのです。キリストによる贖いによって、初めて罪の赦しがあり得るのです。ですから、先ほどのパウロの言葉はこう続くのです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

 ならば「死に至る罪」とは、本来のとおり罪が罪としてそのまま裁かれるという場合です。それはすなわち、イエス・キリストによる罪の贖いを拒否した場合です。「主キリスト・イエスによる永遠の命」は「神の賜物」だと言われていたことを思い起こしてください。それは「プレゼント」です。AさんがBさんにプレゼントをあげたとします。Bさんは確かにプレゼントを受け取りました。しかし、BさんがAさんの前でそのプレゼントを投げ捨てたとします。その時に、あなたはAさんに、「Bさんにプレゼントあげてください」とお願いしますか。それを当然のことのように願えますか。願えないでしょう。ここでヨハネが言っているのは、そのような話です。具体的にはイエス・キリストの福音を捨てて背教した人たち、あるいは受肉と贖罪の信仰を捨てて異端に行った人たちの話が考えられているのでしょう。それを「死に至る罪」と呼んでいるのです。なぜならキリストの十字架を投げ捨てるならば、罪は罪としてそのまま裁かれるしかないからです。

 もちろんヨハネは、そのような人たちではなく、キリストを信じ、その信仰に留まっている人たちに対して語っているのです。しかし、そのような人たちは一方において迫害の中にあり、またもう一方において異端の誘惑の中にあることは事実です。そのような彼らが、「自分もまたいつかキリストの十字架を投げ捨てるのではないか。自分も異端に陥るのではないか。自分も結局は悪魔に屈して滅びに至るのではないか」と不安に思ったとしても不思議ではありません。

 だからこそヨハネは18節以下で「わたしたちは知っています」を繰り返しているのです。「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません」(18節)。悪い者、すなわちサタンの手に陥ることを恐れることよりも、むしろ自分が神から生まれた者であることに、もっともっと信頼すべきなのです。本来罪を犯さない神の子供としてのわたしが既に生まれているのです。神の独り子であるイエス・キリストの兄弟とされているのです。ならば兄弟であるキリストが守ってくださることに、もっと信頼すべきなのでしょう。

 さらにヨハネは言います。「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です」(19‐20節)。

 この世は「悪い者の内に横たわっている(直訳)」。それは事実です。しかし、目を向けるべきは、そちらではありません。私たちは真実な方の内にいるのです。「真実な」というのは偽物ではなく、本物であるということです。本物の生ける神の内にいるのです。そして、キリストの内にいるのです。そのことにこそ目を向けるべきなのでしょう。既にそのようなものとされているのです。だから偽物を避けたらよいのです。異端の教えを含め、一切の偽物を避けること。ですからヨハネは「子たちよ、偶像を避けなさい」という勧めで手紙を締めくくっているのです。

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