2022年11月30日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 1:1~10

ヨハネの手紙一 1:1‐10

 ヨハネはここでひとりのお方のことを伝えようとしています。父なる神と共におられた「命の言」、永遠の命そのものであられるお方は、この世界に来られ、この歴史の中に現れ、私たちが見ることができ、手で触れることができる存在となられました。人となられた御子なる神、イエス・キリストのことです。

 「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(1:3)とヨハネは続けます。イエス・キリストを伝えるのは「交わりを持つようになるため」です。伝道とは交わりへの招きです。

 その交わりとは「御父と御子イエス・キリストとの交わり」であるとヨハネは言います。ヨハネたちは既に御父と御子イエス・キリストとの交わりに入れられています。そのような彼らが、イエス・キリストを宣べ伝えて、さらに他の者を交わりへと招きます。教会が二千年間続けてきたことは、まさにこのことです。そして、私たちにも伝えられ、私たちもその交わりへと招かれたのです。信仰生活とは、この交わりに生きることに他なりません。

 ヨハネがこれを書くのは、すなわちキリストを伝え、交わりへと招くのは、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」であると言っています。「わたしたち」というのは、別の写本では「あなたたち」となっています。「あなたがた」を含めた「わたしたち」と言っても良いでしょう。そのように、交わりへの招きは満ちあふれる喜びを共有するためです。

 このように私たちの信仰生活において、「交わり」は本質的な意味を持っています。「個人的に神を心の中で信じていればよいではないか」という考えはキリストの福音とは無縁です。私たちは、既に存在する交わり、すなわち御父と御子と世々のキリスト者との交わりへと加えられることにおいて、神と共に生きるのです。御父と御子との交わりを基とした信仰における兄弟姉妹との交わりに生き、さらに隣人をその交わりへと招くところにおいてこそ、私たちは満ちあふれる喜びを経験するのです。

 そこでさらにこの交わりについて考えてみましょう。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。すなわちそれは「神との交わり」でありますから、そこでは当然のことながら、《神はどのようなお方であるか》ということが大きな意味を持つことになります。そこでヨハネはこう言っています。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(5節)。

 「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」――この言葉によって思い描くべき一つの姿は、私たちが明るい光の中を共に歩いている姿です。この正反対の状態も思い描いてみましょう。私たちが真っ暗闇の中を歩いている姿です。「光の中」と「闇の中」、その決定的な違いは、一方で見えるものが他方では見えない、ということです。

 私たちは通常は、物が見えることは望ましいことだ、と考えて生活しているものです。ですから昼間はカーテンをあけて太陽の光を部屋に取り込み、夜は人工的な光をもって部屋を照らします。停電などで真っ暗になってしまうと、本当に困ったことになります。

 しかし、私たちは常に何でも見えることが良いと考えているわけではありません。見えないほうが良いと思っているものもあるのです。その代表は何でしょう。それは「罪」です。私たちの罪深い行い、私たちの罪深い姿が見えてしまうことは、私たちにとって都合の悪いことです。ですから、罪について言うならば、それは他の人に見えないことが望ましい。自分にも見えないことが望ましい。そのために、あえて光を遠ざけて闇の中に身を置く、ということが私たちの人生には起こってまいります。

 「神は光である」とヨハネは言いました。しかし、その光を遠ざけて、闇の中に身を置くならば、見えるべきものが見えません。罪が罪として認識されません。言い換えるならば、闇の中にいる限り、人間は自分の罪深い行いを、いくらでも正当化できるということです。8節にありますように、「自分には罪がない」と言うことができるのです。

 この手紙が書かれた当時、「自分には罪がない」という主張のために援用されていたのはギリシア的な霊肉二元論に関する哲学的思弁や様々な神話でした。そのように、人間はいかなる論理を用いてでも「自分に罪がない」と言い張るものなのです。

 今日の私たちは、当時の人々と異なる論理を用いて、自分を正当化しているかもしれません。いずれにせよ、それは闇の中において可能なことです。ですから、私たちは本当は、「自分には罪がない」という主張が神の明るい光に耐え得ないことを知っているのです。実際、私たちが普段言い張っていることを神の御前で本当に主張することができるか、と問われるならば、口を閉ざさざるを得ないでしょう。

 そして、もう一つ明らかなことがあります。それは闇の中でどんなに「自分には罪がない」と言い続けても、そこに本当の喜びなどない、ということです。思い描いてみてください。真っ暗闇の中を歩いている自分を、そして真っ暗闇の中を歩いている隣人を、闇の中における人間社会の営みを。それは確かに「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」というヨハネの言葉とは対極にある姿ではありませんか。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(6節)とヨハネは言います。まことに彼の言うとおりです。

 それゆえ、私たちは闇の中を「歩いて」はならないのです。すなわち、闇の中で生活し、その生活を継続してはならないのです。たとえ闇の中に自らを置いてしまうことがあったとしても、その闇の中に留まり続けてはならないということです。そこで必要なのは悔い改めです。私たちは神のもとに立ち帰り、光の中に立ち帰らなくてはならないのです。

 光の中を歩むなら、罪が罪として見えてくるでしょう。自分の為してきた悪がはっきりと見えてくるでしょう。もはや「自分には罪がない」とは言えません。そこには心の痛みが伴います。しかし、それでもなお、光の中に身を置くべきなのです。なぜなら、私たちには約束が与えられているからです。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(7節)。私たちが光の中にいるかぎり、御子イエスの血が私たちの罪を清め続けるのです。

 そして、そのような光の中においてこそ、闇の中にはなかった互いの真実な交わりも成り立つのです。それは具体的に次のように言い換えられています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(9節)。

 光の中を歩むために与えられている公の場所、それは私たちが共に集まり神を礼拝する場所です。光の中を歩くということは、単なる精神的な事柄を言っているのではありません。それは共に神を礼拝して生活するという具体的な形を持っているのです。そして、そのような具体的な公の場に、私たちは罪を告白する者として共に立つのです。

 私たちは毎週詩編51編を交読します。「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」この言葉を、私たちは公に口にします。これを単なる形式的なお題目にしてはなりません。もし私たちが真実に神の前でこの言葉を告白するならば、それは私たちが悔い改めて、いかなる罪を正当化することをも放棄することを意味するのです。

 そして、私たちが自分の罪を神の御前で認める時、そこに全く逆説的なことが起こるのです。「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。

 真実で正しい方であるならば、その後に来る言葉は「赦し」ではなくて「裁き」であるはずでしょう。しかし、赦してくださると言うのです。なぜでしょうか。2章2節に書かれていますように、イエス・キリストがわたしたちの罪、全世界の罪を償ういけにえとなってくださったからです。だから、真実で正しい方が赦してくださるのです。罪を償ういけにえとなられた御子イエスの血が私たちの罪を清めるのです。

 私たちの互いの交わりは、そのような礼拝から始まります。そこから光の中における交わりが始まるのです。神の恵みを共有する、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」が始まるのです。そして、私たちはイエス・キリストを宣べ伝え、その交わりへとさらに隣人を招きます。真の喜びが満ちあふれるようになるために!

(祈り)
 

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