コリントの信徒への手紙一 6:12‐20
知らないのですか
今日お読みした聖書箇所において、パウロは「知らないのですか」という言葉を繰り返しています。それは、彼らが当然知っていなくてはならないことだったからです。それは何でしょう。パウロは言います。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」(15節)。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(19節)。
当然知っていなくてはならないこと――それは自分の体がキリストの体の一部だということです。また、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であるということです。要するに、自分は何者であるかということです。どのような存在であるかということです。正確に言うならば、神がどのような存在として見ていてくださるか、キリストがどのような存在として見ていてくださるかということです。
私たちは、人がどう見ているかを気にしながら生きています。ですから、「自分がどのような存在であるか」ということを、人の言葉や人の扱いによって決めてしまうようなことも起こってまいります。人から称賛され、認められ、大切に扱われれば、自分が価値ある存在だと思う。逆に、人から粗末に扱われ、人から無価値なもののように言われれば、自分が無価値な存在であると思う。そのようなことも起こります。
しかし、「自分がどのような存在であるか」を決めるのは、人の言葉ではないのです。神の言葉なのです。人がどう見るか、どう言うか、どのように扱うかではないのです。そうではなく、神が私たちをどのような存在として見ていてくださるか、キリストが私たちをどのような存在として見ていてくださるかということなのです。
それをコリントの信徒たちは当然知っていなくてはならない。なぜなら、神の言葉は既に宣べ伝えられているからです。彼らは、人の言葉ではなく、神の言葉によって、自分自身をどう見るかを決めなくてはならないのです。なぜなら、自分をどう見るかで人の生き方は決まってくるからです。だからこそ、パウロは、キリスト者が当然知っているはずのことを改めて語っているのです。思い起こさせるのです。「自分はどのような存在であるか」ということを。
あなたがたの体はキリストの体の一部です
その第一は、「自分の体がキリストの体の一部である」ということです。パウロは言います。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」(15節)。
これを書いているパウロは、かつて教会の迫害者でした。エルサレムの教会を迫害するだけでなく、その迫害の手をダマスコにまで伸ばそうとしていたのです。その時の様子は使徒言行録9章に記されています。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(使徒9:1‐2)。しかし、そのダマスコへの途上でキリストに出会うのです。天からの光が彼の周りを照らし、彼は地に打ち倒されました。そして、彼はこう呼びかける声を聞いたのです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。パウロは声の主に問いかけます。「主よ、あなたはどなたですか。」すると答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。
パウロが迫害していたのは教会です。個々のキリスト者です。しかし、キリストは「あなたが迫害しているイエスである」と言われました。それはイエス様御自身に対する迫害だったのです。迫害されている一人一人の苦しみや痛みは、イエスにとって御自分の苦しみであり痛みでした。なぜなら教会はキリストの体だからです。パウロが出会ったのは、十字架にかかられ、復活されたキリストでした。しかし、さらに言葉を加えるならば、復活して、教会を御自分の体として生きておられるキリストだったのです。
「キリストの体の一部だ」ということは、キリストにとって私たちは掛け替えのない大切な存在だということです。言い換えるならば、《キリストが》私たちを必要としていてくださる、ということです。私たちがキリストを救い主として必要としている。それは言うまでもありません。しかし、私たちがキリストを必要としているだけでなく、キリストが「体」として私たちを必要としていてくださるのです。
そう言いますと、「わたしは何もできませんから、教会にもイエス様にも必要ではないでしょう」と思う人がいるかもしれません。しかし、この手紙の後の方で、パウロはこう言うのです。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(12:21‐22)。これは「不可欠だ」という言葉です。不可欠。誰がそう思っていてくださるのですか。キリストです。キリストが必要としていてくださる。私たちが自分を役に立つと思うか否か。そんなことはどうでもよいのです。キリストが必要としていてくださる。そして、キリストが用いてくださる。それが「キリストの体の一部だ」ということです。
今日の福音書朗読では、イエス様が重い皮膚病を患っている人をいやされた話を読みました(マルコ1:40‐45)。イエス様はその手を差し伸べてその人に触れました。手がその人をいやしたわけではありません。いやしたのはイエス様です。しかし、この世の体がなかったら、具体的には手がなかったら、その人に手を伸ばして触れることはできなかったのです。イエス様はその時、手を必要としたのです。私たちは、その「手」なのです。イエス様がこの世において人々に触れ、救いをもたらすために、この世に存在する手を必要としているのです。
それが私たちです。私たちの体です。それがこの体をもって生きる私たちの人生です。だから大切にしなくてはならないのです。価値ない者のように扱ってはならないのです。今日の箇所では具体的に「みだらな行いを避けなさい」とパウロは言っています。性的な不品行のことです。それは不道徳なことだから止めなさいとパウロは言っているのではありません。そうではなくて、私たちの体がキリストの体の一部であり、神にとって、イエス様にとって、どれほど大事な存在かを語るのです。「それはイエス様の体です。大事で必要な体です。そんなことしていいのですか」と。
「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」。私たちも、そのことを知らなくてはなりません。私たちが自分をどう見るかで、私たちの生き方が決まってくるからです。
あなたがたの体は神殿です
そして、さらにパウロは言います。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(19節)。私たちがキリストにとって必要な体だというだけでなくて、「あなたがたの体は神殿だ」とまで言うのです。
この手紙が書かれた時点では、まだエルサレムに神殿がありました。ローマ軍によって破壊される前のことです。かつてイエス様と弟子たちがエルサレムに上った時、弟子の一人がその神殿を見てこう叫びました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(マルコ13:1)。紀元前20年にヘロデ大王によって修復・増築が開始され、石材を運ぶために千台の車が用意され、熟練した職人一万人が工事に当たったとも言われるエルサレムの神殿です。神の住まいとして、公の礼拝の場として、神に献げられた壮麗な建物でした。それがパウロの知っている「神殿」なのです。
そのことを考えます時に、そのパウロが「あなたがたの体は神殿だ」と言っていることは、まことに驚くべきことです。明らかにギャップがあります。この手紙の宛先であるコリントの教会は、先ほど触れましたように性的な不品行に陥っている人がいると思えば、もう一方において「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」などと言って分裂して争っている。そんな教会です。そんな信徒たちです。それが「神殿」ですか。どう見ても、穴だらけ破れだらけのあばら屋でしかありません。もちろん、それは他人事ではありません。もし実物の神殿を私たちが知っていたら、この言葉を簡単には口にできないと思います。あまりにもギャップがありすぎますから。
しかし、大事なのは人がどう見るかではないのです。神様がどう見ていてくださるかなのです。どんなあばら屋であっても、神様が大枚はたいて買い取って、御自分が住まうと言われたら、それは神殿なのです。神様が私たちを御自分のものとするために差し出された代価、それは独り子の命でした。私たちはキリストの血潮をもって贖われたのです。買い取られたのです。言い換えるならば、このあばら屋にそれほどの価値を見てくださり、そこまでして御自分のものとされたのです。だからパウロは言うのです。「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と。
そう考えますと、私たちが自分自身けなしたり、くさしたり、価値のないもののように扱うことは、買い取ってくださった神様に対するとんでもない侮辱であるとも言えるでしょう。自分のものだったら、何を言おうとどう扱おうと勝手です。しかし、もう自分のものではないのですから。この世のものでも、他人様が大枚はたいて買ったものを悪く言ったり貶めたりしたら失礼です。神様のものならなおさらです。
神様のものは大切にしなくてはなりません。神様が御自分のものとされたこの体、この体によって営まれるこの人生は大切に扱わなくてはなりません。聖書は言います。「あなたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と。買い取られた体。キリストの命の値が付けられた体です。そのようにして神の栄光を現すための体となりました。そのことをひたすら考えて生きるべきなのです。
私たちの体はキリストの体の一部です。私たちの体は、神の霊が宿ってくださる神殿です。神様は私たちをそのように見ていてくださいます。まずは、私たちもしっかりとそのように自分を見ることが大事です。私たちが自分をどのように見るか。そのことによって私たちの生き方は決まってくるのですから。
(祈り)
2022年1月30日日曜日
「あなたの体は聖なる神殿です」
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