コリントの信徒への手紙一 12:3-13
特別な力が与えられたら?
福音書を読みますと、そこにはイエス様のなさった悪霊の追放や病気の癒しなど、神の力による数々の奇跡が描かれています。使徒言行録を読みますと、イエス様だけでなく、使徒たちによっても数々の奇跡がなされている場面に出会います。そして、今日お読みしましたコリントの信徒への手紙にも、このようなことが書かれていました。「ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」(8‐10節)。
「知恵の言葉」「知識の言葉」「奇跡を行う力」など、ここに書かれているのが具体的にどのようなものであるか明確に説明されているわけではありません。しかhし、ともかく超自然的な能力について書かれていることはわかります。コリントの教会には、このような超自然的な能力が与えられている人が少なからずいたようです。
もちろん信仰生活とは神と共に生きることですから、信仰生活において人間の理解を超える神の力の現れがあっても、それ自体は不思議なことではありません。私たちもまた気づいていないだけで、本当は不思議な神の力の現れによって守られ、支えられ、助けられて今ここにいるとも言えるのでしょう。しかし、そのような超自然的な神の力が顕著に日常的に現れていたのが、この手紙が宛てられているコリントの教会だったのです。
さて、そのような神の力の現れが与えられたらどうなるかを考えてみましょう。先ほどのリストの中で一番わかりやすいのは「病気をいやす力」(9節)だと思います。例えばそのような力について考えてみましょう。ある日、「病気をいやす力」が与えられました。その人が手を置いて祈ると、病気の人が次々にいやされていきます。その人はいったい何を考えるでしょうか。
その人はこう考えるかもしれません。「この特別な力が与えられたのは、これをもって神と人とに仕えるためだ。わたしには特別な務めが与えられているのだ。」そのように「務め」が与えられたと理解して、一生懸命に仕える。その結果として、病を負って苦しんでいる人たちの間において具体的な働きが進められていくでしょう。まさにその人を通して神の働きが現れることになるでしょう。
しかし、それとは異なったシナリオも考えられます。その人は他の人にできないことができることによって、他の人を自分より下に見るようになりました。他の人は自分に従うべきだと考えるようになりました。自分の特別な力を利用して、他の人々を支配するようになりました。こういうこともあり得ます。人は自分に与えられた能力をもって仕えることもできるし支配することもできるのです。
さらにもう一つのことを考えてみましょう。そのような特別な力を与えられた人が二人いたとします。一人には「病気をいやす力」が与えられた。もう一人には「預言する力」が与えられたとします。さてこの二人は何を考えるでしょう。
彼らは考えました。「自分に与えられていない力がもう一人には与えられている。また自分に与えられている力がもう一人には与えられていない。それはなぜか。それぞれ務めが異なるからだ。仕える仕方が違うからだ。それらが異なるのは互いに補い合うためなのだ」と。そして、共に働くようになりました。こうして彼ら二人を通して、苦しみを負っている人々の間で、神の働きが進められていきました。
しかし、この場合も違うシナリオが考えられます。彼らは互いに与えられている能力を比較し合うようになりました。いったいどちらが優れているのか、と。こうして互いは対立するようになりました。周りの人々もこの対立に加わります。いったいどちらが優れているのか。どちらに付くべきか。こうして対立する二つのグループができあがりました。このようなこともまたあり得ることでしょう。人は自分に与えられた能力をもって仕える者として協力することもできるし、支配しようとする者として対立することもできるのです。
さて、ここまでの話で分かりますように、このようなことは何も超自然的な能力に限ったことではありません。人は与えられている力をもって仕えることもできるし支配することもできる。協力することもできるし対立することもできるのです。
いろいろありますが
そこで実際、コリントの教会はどうであったのか。どうもこの手紙を読む限り、第一のシナリオではなく、第二のシナリオに従って事は進んでいたようです。仕えるのではなく支配する方向に、協力し補い合うのではなく、対立し争い合う方向に事は進んでいた。それゆえにパウロは次のように書いているのです。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(4‐6節)。
ここで繰り返されている言葉があります。「いろいろありますが」という言葉です。そうです「いろいろある」のです。この世では、ある能力や資質が「あるかないか」が重要視されます。「あるかないか」で自分と誰かとの比較が起こります。しかし、聖書は「あるかないか」ではなくて「いろいろある」と言うのです。あの人に与えられているものが自分にないとするならば、自分には別なものが与えられているのです。「いろいろある」のですから。そうです。与えられているものが異なるだけの話なのです。
今、「与えられているもの」と表現しました。今日の聖書の言葉を用いるならば「賜物(カリスマ)」です。「賜物」というのは「恵み(カリス)」という言葉から派生しているのです。「恵み」というのは、要するに自分の努力によって獲得したものではない、ということです。あるいは、自分の行いに対する報酬ではない、ということです。純粋に恵みとして「与えられたもの」。それが「賜物」です。
ならばそれはいかなる意味においても他者に対して誇るべきものではありません。それが恵みとして与えられているならば、それはあくまでも「仕えるため」なのでしょう。これを聖書は「務めにはいろいろありますが」と表現します。この「務め」はもともと例えば食卓で給仕をすることなどに用いる言葉であり、「奉仕」とも訳されます。ここに書かれているように「賜物」がいろいろあるのは、「務め」もいろいろあるからです。いろいろな仕え方があるからなのです。ならば大切なことは自分の仕え方を見いだすことなのでしょう。そのためには、自分に与えられている賜物について高ぶってはならないし、与えられていない賜物について卑下してもならないのです。高ぶりも卑下も自分に与えられている務めを見失わせるからです。
そして、そのようにいろいろな「務め」が与えられているのは、いろいろな「働き」がこの世の現実において現れるためなのです。その「働き」は「私たちの働き」でありながら同時に「神の働き」でもあります。「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(6節)と書かれているとおりです。この「すべての場合に」というのは「すべての人の中で」とも訳せる言葉です。この世にはありとあらゆる人がいます。またありとあらゆる場合があります。そこで神が働かれるとするならば、それこそ、その働きは「いろいろある」はずです。そのように神がいろいろな働きをなさるために、いろいろな形において仕える人が必要なのです。
そのように「いろいろありますが」という言葉を繰り返しながら、もう一方でパウロはもう一つの言葉を繰り返します。それは「同じ」という言葉です。「同じ霊です」「同じ主です」「同じ神です」。「霊」「主」「神」という言葉に、聖霊・キリスト・父なる神の三位一体を見る人もいます。いずれにせよ、同じ神によることを言い換えているのです。
私たちはいろいろな賜物を与えられている。いろいろな務めを与えられている。そのように私たちの側は「いろいろ」です。しかし、それはあくまでも《同じ神に》仕えるための「いろいろ」なのです。ならばそれは共に仕えるための「いろいろ」なのであり、互いに補い合うための「いろいろ」なのです。私たちは補い合うという意味において互いに仕え合いながら、同じ神に仕え、この世に仕える者とされているのです。それを今日の聖書箇所では「皆一つの体となるために洗礼を受け」(13節)と表現しています。体ならば大変分かりやすい。いろいろな各部分が補い合いながら共に仕えているのが体というものでしょう。そのような体となるために私たちは洗礼を受けたのです。そのような体、それが教会です。
さて、今年の年度主題は、週報の中央に縦書きされているように「愛し合い、仕え合う教会」です。この一年間、このテーマに取り組みます。そこで改めて、「愛し合い、仕え合う教会」であるとは、いったいどういうことなのかを繰り返し考えることになるでしょう。それは少なくとも、単にお互いが親しくて仲の良い教会ということではなさそうです。
ではどういうことなのか。今日の聖書箇所を読みますと、「愛し合い、仕え合う教会」であるために、少なくとも一つの大切なことが見えてきます。それは一人ひとりが《自分自身を生きている》ということです。他と比較して高ぶるでもなく、卑下するでもなく、手は手として、足は足として、自分自身を生きている。誰かに仕える者として、互いに補い合う者として、自分自身を生きている。それは自分の仕え方を知っているということであり、そして、何を補ってもらわなくてはならないかを知っているということでもあるのでしょう。だから喜んで他者を補い、仕え、そして、喜んで補ってもらう。そのような一人ひとりの在り方と互いの関係性。それが「愛し合い、仕え合う教会」であるためには不可欠であるように思います。
(祈り)
2021年4月25日日曜日
「神からの賜物と務めと働き」
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