イザヤ書 60:1‐6
起きよ、光を放て
「起きよ、光を放て」。今年最後の主日において、私たちに与えられている主の御言葉です。「起きよ、光を放て」。――その言葉を最初に耳にしていたのは、エルサレムにいた人々でした。今から2600年近く前の話です。
紀元前六世紀、バビロニアの軍事侵攻により、ユダ王国が滅亡しました。エルサレムは破壊され、神殿も焼き払われてしまいました。国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。
その後、時代はバビロニアの支配からペルシアの支配へと移り変わりました。ペルシアの王キュロスは支配下にある諸民族の宗教と文化を保護する政策を採りました。キュロスは、捕らえ移されてきた捕囚の民に対しても、彼らがエルサレムに帰還し、神殿を再建することを許可しました。「キュロスの勅令」と呼ばれます。帰還民たちが神殿の再建に取り組んでいく姿は、旧約聖書のエズラ記に記されております。途中長い中断の時期がありましたが、ついに神殿が完成しました。キュロスの勅令から既に20年の月日が経過していました。
神殿の再建には多くの労苦が伴いました。しかし、そこには同時に大きな期待もまた伴っていました。神殿が再建されるならば、かつてのダビデ・ソロモンの時代のように、エルサレムは再び繁栄を見ることになる。そう彼らは信じていたのです。そのような期待のもとに、神殿で礼拝は行われるようになりました。また律法の遵守を重んじるコミュニティも形作られていきました。
しかし、現実にはイスラエルの民を取り巻く環境は、神殿の再建後しばらく経ってもなお何一つ変わってはいませんでした。かつての繁栄を見ることはありませんでした。彼らは依然としてペルシアの支配のもとにある弱小民族の一つに過ぎませんでした。しかも、干ばつと凶作が続き、いなごによる大被害も起こり、繁栄するどころか、人々の生活はますます貧しく苦しくなっていきました。神殿再建当時の熱狂的な興奮はもはや跡形もなく消え去っていました。残っていたのは苦しい生活の中における深い失望と神への不信だけでした。
旧約聖書のマラキ書には、そんな当時の人々が口にしていた言葉が引用されています。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか」(マラキ3:15)。そう言っている人々の姿は容易に想像できますでしょう。神から心が離れてしまい、神に仕えることからも、神を礼拝することからも心が離れてしまっている姿――想像できますでしょう。
しかし、そのような彼らに、そのようなエルサレムに、預言者を通して神は言われたのです。「起きよ、光を放て!」
「光を放て!」と語られているのは、暗闇がそこにあるからです。闇が覆っているという現実があるからです。では、その暗闇とは何なのでしょう。先にも触れましたように、確かにそこには大国の支配のもとにある弱小民族の苦しい生活がありました。ダビデの時代のエルサレムとは似ても似つかない都の姿がそこにありました。彼らは確かに明るい世の中を見ていたわけではないと思います。
昨年12月8日、中国の武漢において、新型コロナウイルスの感染者の発症が初めて確認されました。そして、2020年に入り感染は拡大し、まさに今年は新型コロナウイルスに始まり新型コロナウイルスに終わった一年でした。パンデミックとの闘いがありました。経済も極度に落ち込みました。この一年を明るい一年と評する人はまずいないでしょう。私たちが目にしているのも、決して明るい世の中ではありません。
しかし、神が「光を放て」と言われる時、そのような意味における「暗い世の中」を照らすためではないのです。だからこそ、預言者は「見よ」と言うのです。目を向けさせるのです。主は言われます。「見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる」(2節)。
預言者は「見よ」と言って、エルサレムに住む人々の苦境に目を向けさせたのではありませんでした。闇が覆っているのはエルサレムではないのです。闇は全地を覆い、国々を包んでいるのだ、というのです。
ある意味では意外な言葉です。少なくとも周辺諸国はエルサレムの惨状に比べればずっとましな状況にあるのです。経済的にも豊かでしょう。中東を支配していたペルシア帝国は当時繁栄の絶頂にあったのです。実際、エステル記を読みましても、エズラ記、ネヘミヤ記を読みましても、当時のペルシア帝国がどれほど豊かであったかが伝わってまいります。そのような意味においては、むしろ周りの異邦人世界の方が明るかったと言えるでしょう。
しかし、だからこそ預言者は「見よ」と言うのです。そこに暗闇が満ちていることを見なくてはならないのです。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」。そこにあるのは、単に不幸や困難や不況や貧困の闇ではないのです。新型コロナウイルスがもたらすような暗闇ではないのです。そうではなくて、人間の罪によってまことの光である神の交わりを失った世界という根本的な暗闇なのです。そこには繁栄はある。権力もある。しかし、まことの光がないのです。
実際、「コロナ禍」と人は言いますが、しかし、新型コロナウイルスが存在しなかったら、光はあったのでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。もともと闇が覆っていたのです。新型コロナウイルスによって、世界を暗闇が覆っているという現実が露呈しただけなのだろうと思うのです。それまでは気づかなかっただけなのです。だから「見よ」と言われているのです。今こそ見なくてはならない。
「見よ」と預言者は言います。繁栄の中にあるものを見よ。力の支配の中にあるものを見よ。この世の明るさの中にあるものを見よ。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。」だからこそ、1節の言葉が語られたのです。「起きよ、光を放て。」この世界の本当の暗さは神の光を失った暗さに他ならないならば、神を信じる者が光を放たなくてはならないのでしょう。自分の望んでいたことが実現しないことで失望し、「神に仕えることはむなしい」などと言っていてはならないのです。神なき世界の暗闇に溶け込んでしまっていてはならないのです。それゆえに神は「起きよ」と呼び掛けられるのです。それは本来の姿ではないからです。身を横たえていたところから起き上がらなくてはならない。立ち上がらなくてはならない。神は今のこの時代であるからこそ、教会にも呼び掛けておられるのでしょう。「起きよ、光を放て」と。
主の栄光は輝いている
そして、さらに言うならば、主はただ「起きよ、光を放て」とだけ言っておられるのではありません。預言者の言葉には続きがあります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」。
「あなたを照らす光」とは直訳すると「あなたの光」です。しかし、新共同訳がこれを「あなたを照らす光」と訳したのは適切であると思われます。その後に書かれているように、光を放つのはもともと彼らが内に持っている何かではないからです。「光を放て」と言われているのは、彼らを照らす光が既に昇っているからです。それは「主の栄光」です。彼らは照らされて光を放つのです。ちょうど月が太陽の光に照らされて輝いているようにです。
ならば重要なのは、輝きの源である神との関係なのでしょう。彼らはペルシアに支配される、富も力も持たない、貧しい民に過ぎません。繁栄する異邦人の間にあって、生活苦にあえぎながら、悩みながら、頭をかかえながら生きている人々です。しかし、それでもなお、彼らはエルサレムに集められた人々なのです。そこにあるのは、かつてソロモンの建てた神殿とは似ても似つかないものであったかもしれない。けれど、彼らの間に神殿があり、祭壇があるのです。彼らは礼拝する民として神に集められた民なのです。彼らの姿はボロボロかもしれない。けれど、既に神の栄光は彼らを照らしているのです。
だから、彼らは自分たちを照らす光に向かって顔をあげたらいいのです。「神に仕えることはむなしい」などと言っていないで、神を礼拝し、心からの賛美を捧げ、神に自らを献げて生きたらいいのです。彼らを照らす光は既に昇っているのですから。すると何が起こるのか。「国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(3節)。そのようなことが起こるのだと預言者は語るのです。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」。――時を経て、私たちが同じ言葉を耳にしています。神が同じように私たちに語り掛けておられます。そして、私たちはその光が《誰であるか》を既に知らされています。どのように主の栄光が私たちの上に輝いているのかを知らされているのです。
「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。今年のクリスマスの聖書日課として与えられていた御言葉です。そして、このようにも語られていました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(同14節)。
私たちはその御方によって集められてここにいます。もっとも現在はまだ毎週礼拝堂に集まれるわけではありません。しかし、それでもなお週毎に私たちは礼拝へと招かれています。招かれている私たち自身は、輝くものなど何もない、みすぼらしい姿であるかもしれません。しかし、既に私たちを照らす光は昇っているのです。主の栄光は私たちの上に輝いているのです。
ならば、私たちもまた、私たちを照らす光に向かって顔をあげたらいいのです。神を礼拝し、心からの賛美を捧げ、どのような状態であれ、その自分自身を神に献げて生きたらいいのです。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」。祈りましょう。
2020年12月27日日曜日
「起きよ、光を放て」
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