曇り空のような場面において
本日読まれましたのは、パウロの弁明の言葉です。彼が自らについて弁明しているのは訴えられていたからです。しかし、パウロは総督に対して訴え出られるようなことは何もしていないのです。そもそもなぜ総督のもとに送られたのかと言えば、それはエルサレムにおいてパウロを暗殺する計画が進んでいたからです。その暗殺計画の片棒を担いでいたのはイスラエルの宗教的な指導者たちでした。しかし、その計画がたまたまパウロの甥っ子の耳に入りました。パウロは間一髪難を逃れ、夜の内にカイサリアにいる総督のもとに護送されることになりました。そのようなわけで、暗殺に失敗した大祭司や長老たちが、今度は弁護士テルティロという男を連れて、もっともらしい罪状をひっさげてカイサリアまで下ってきたのです。彼らは総督にパウロを訴え出ました。そこでパウロが自らについて弁明します。それが今日お読みした箇所です。
パウロの弁明は筋が通っています。彼の無罪は明らかでした。しかし、今日の聖書箇所はこう続くのです。「フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、『千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする』と言って裁判を延期した」(22節)。そして、結果的にはフェリクスが総督であった二年間、パウロは監禁されたままになるのです。24章の最後はこう締めくくられています。「フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた」(27節)。結局、今日お読みしたパウロの弁明は、パウロの置かれている状況について、なんら良い結果をもたらしはしなかったということです。
もちろん、確かにこの弁明の場面は総督の前でキリスト者の希望を証しする機会となったとは言えます。総督フェリクスはパウロの話に関心を持ったらしいことが伺えます。今日お読みしたパウロの弁明の後、24節にこう書かれています。「数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた」(24節)。なんと、素晴らしいことが起こっているではありませんか。総督とその妻がキリスト教信仰を求め始めた。――と、思いきや続きはこうなっているのです。「しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、『今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする』と言った」(25節)。結局、フェリクスもその妻も家族皆もキリストを信じました、という喜ばしい話にはならないのです。
それどころか、さらにはこんな話が続きます。「だが、パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた」(26節)。このように実に気持ち悪い話になるのです。救援金を諸教会から集めてきて渡しに来たというパウロの言葉を聞いて、この男からならきっと賄賂が取れると思ったのでしょう。キリスト教に関心があるふりをすれば、伝道者から何か吸い上げられると思ったのでしょう。そして、結局は今日お読みした弁明の言葉は、パウロによって特別に有利に働いたわけでもなく、先ほども言いましたように、パウロは二年間拘留されたまま放置されたという話に終わるのです。
これが水戸黄門のようなドラマなら、悪代官ならぬ悪大祭司がその悪を暴かれて、恐れおののき平伏して終わるのでしょう。しかし、現実はなかなか60分で完結するドラマのような晴れ晴れとした話にはならない。今日はパウロの弁明の言葉の部分だけを読みましたけれど、この24章全体としては、喩えて言うならば、どんよりと厚い雲が垂れ込めた曇り空のような話です。そして、そちらの方が、私たちには身近なのだと思います。
パウロでなくとも、いわれもないことで不当に負わされる苦しみを味わわされることはあるのでしょう。そこで自分の行うことが、目に見える良い果を何も生み出さないことはいくらでもあるのでしょう。そのような時に神様が超自然的に正しいことを実現してくれるかと言えば、どうもそのように世界が動いているようには見えない。むしろ人間の醜い思いばかりが渦巻いて、結局はそれで物事が進んでいくようにしか見えない。それが私たちの見ている現実の世界です。
復活の光の中で語るパウロ
しかし、そこで改めて今日の箇所に目を移しますと、もう一方で、この場面に全く馴染まないパウロの姿が見えてまいります。そこには、不当な苦しみを背負わせられながら、不当な訴えを間近で耳にしながら、なおもそこで己の不幸を嘆くでもなく、相手の不真実に腹を立てるでもなく、またこの裁判の結果を案じるでもなく、ただ淡々と為しえることを行っているパウロの姿がそこにある。その時間は弁明をするために与えられた時間だから、「私自身のことを喜んで弁明いたします」と言って、限られた時間の中、ただ事実を淡々と語るパウロがそこにいるのです。
明らかに、浮いています。置かれている状況にマッチしていません。どんよりとした曇り空に溶け込んでしまわない。彼はこの世において、明らかに異質な姿をもって異質な言葉を語っているのです。その異質な言葉の中心にあるのは「復活の希望」です。
彼はこう言っています。「しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」(14‐16節)。
「正しい者も正しくない者もやがて復活する」とは、要するに「死で終わりではない」ということです。「死が終着点ではない」ということです。私たちは死に向かって生きているわけじゃない、ということです。しかも、そこで単に「霊魂は不滅ですよ」という言い方はしないのです。「復活」というのはあくまでも神の業なのです。《神が》死を終わりでなくするのです。
死というのは人間がもはや何も為しえなくなる究極の地点です。いわば人間は死の手前までは偉そうな顔をできる。しかし、もはや人間が何も為しえなくなる時が来るのです。自分自身の状態についても、自分自身が生きてきた人生についても、自分の犯してきた罪についても、もはや何も為しえなくなる時が来るのです。しかし、人間が為しえるところがゼロになったところで、なおそこに神がおられるのです。そして、そこにおいてまさに神が神として関わられるのです。人はそこにおいて本当の意味で神を神として知ることになる。それが「復活」と表現されている神の御業です。
ならば人間にとって何よりも重要なのは、そのような神との関係なのでしょう。ここで「正しい者」とか「正しくない者」と言われていますけれど、それは単に道徳的な正しさのことではありません。それは神との関係の話なのです。神との関係は死んで終わりではないのです。それこそが死んでも重要になってくるのです。だからこそ、パウロは言うのでしょう。「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」と。
自分の弁明によって直ちに無罪として釈放されるか、それとも拘留が続くのか。敵対者に一矢報いることができるのかそうでないのか。自分の行うことが目に見える結果を生むか生まないか。パウロにとっては、そのようなことは、ある意味でどうでもよいのです。彼にとって重要なことは、そこで誰に向かってどう生きているかということだったのです。その意味では、彼自身は晴れ晴れと神と共に生きているのです。やがて自分の死においてさえ復活という御業を現される神、その神と共にいるのです。総督の前で裁かれていても、獄中に拘留されていても、神と共にいるのです。いわば彼は復活の光を見て、復活の光の中を生きているのです。
私たちもまた同じ光の中で
そのようなパウロが見ていた光が同じように差し込んでいるところ、それがこの主日の礼拝です。私たちの日常がどんよりとした曇り空のもとにあったとしても、私たちがそのような状況に生きざるを得なかったとしても、今は光の中に身を置いている私たちが確かにここにいるのです。私たちが本当に復活の主を《礼拝》するために集まっているならば、私たちは確かに復活の光の中に身を置いて、パウロと同じように信仰の言葉を口にしているのです。
それは皆さんが家で礼拝を捧げるとしても同じです。来週、皆さんはここに集まることはできないのでしょう。しかし、主の日を聖別し、場所を聖別し、神の御前に居住まい正して、ちゃんと聖書を開いて、復活の主を本当に《礼拝》しているならば、皆さんは確かにパウロと同じように、復活の光の中に身を置いて、信仰の言葉を口にしているのです。
そして、そこから再び日常の生活の中に出ていくのです。復活の主を礼拝し、主と共にあることが私たちにとって決定的に重要なことであるならば、この世に出て行っても私たちは一緒に灰色になってしまうことはありません。その中に溶け込んでしまうことはありません。私たちはパウロと同じように神と共に、晴れ晴れと復活の光の中を生きていくのです。さあ、そのような一週間に向かって、ここから歩み出しましょう。
(祈り)