2020年4月29日水曜日

祈り会用:ヨハネによる福音書 7:25-36

 今日の箇所には「エルサレムの人々」が出てきます。これは今まで出できた「ユダヤ人たち」や「群衆」と区別されています。ユダヤ人たちは、32節では「祭司長たちとファリサイ派の人々」と言いかえられています。ユダヤ人社会の権力者たちです。彼らはイエスを捕らえて殺そうと画策しています。一方、群衆は地方から祭りのためにエルサレムに上ってきた人々と考えられます。群衆の間ではイエスについていろいろとささやかれていました(12節)。今日の箇所では、群衆の中にイエスを信じる者も大勢いたことが書かれています(31節)。しかし、それは既に語られていたように、しるしを見て信じた人々と同じでした。

 今日出てきたエルサレムの人々は、ユダヤ人たちが敵意をもってイエスを捜し回り、捕らえて殺そうとしていることは知っているようです。そのイエスが祭りの最中に現れて、神殿の境内で教えていたのに驚いたのでしょう。彼らの中にはこう言う者たちがいました。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」(26節)。もちろん、そのような事が起こっているはずもなく、手出しをしなかったのは、イエスを取り巻く群衆が騒ぎを起こさぬよう、密かに捕らえることが難しかったためなのでしょう。

 しかし、重要なのはエルサレムの人々の言葉の続きです。彼らはこう言ったのです。「 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」。イエスがガリラヤのナザレ出身であることは既に広く知られていたと思われます。一方において「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出る」という理解がありました。しかし、もう一方において、メシアは人に知られることなくある日突然現れるという思想は広く行き渡っていました。恐らくはミカ書3:1に由来するものと思われます。それゆえに「どこの出身かを知っている」ということがメシアと信じる妨げとなったのです。いや、それだけではありません。彼らは神の都エルサレムの人々です。彼らにとっては「ナザレ出身のメシア」など、到底承認することはできなかったのです。ガリラヤ出身のナタナエルでさえ、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っていたのですから。

 そのようなエルサレムの人々の言葉を耳にした時、神殿の境内で教えていたイエス様は彼らに大声でこう言いました。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」(28節)。

 彼らは確かにイエスがどこから来たのかを知っている。しかし、本当の意味でどこから来たのかは知らないのです。イエス様にとって決定的に重要なのは、ご自分が父なる神のもとから来たということです。そして、これまで見てきたように、このことはイエス様ご自身が人々に公に語ってきたことなのであって、恐らく同じことを神殿の境内でも語っていたでしょうし、彼らも聞いていたはずなのです。しかし、彼らの頭の中にはイエスが「ナザレから来た」ということがあるから、「父から来た」ということがまっすぐ心に入らない。イエス様がどんなに父について語っても、それが入りません。だからイエス様は言われるのです。「あなたたちはその方を知らない」と。

 エルサレムの人々は、「あなたたちはその方(神)を知らない」と言われて、それは腹が立っただろうと思います。知っていると思っていますから。ですから人々(彼ら)はイエスを捕らえようとしたのです。しかし、あえて手をかける者はいませんでした。実際的な理由としては、ユダヤ人たちが捕らえ得なかったのと同じで、巡礼に来ていた群衆の中にイエスを信じる者が大勢いたからなのでしょう。騒ぎを起こすことは避けたかった。しかし、聖書は「イエスの時はまだ来ていなかったからである」と説明するのです。イエス様は父によって遣わされたのであって、ただ父の定められた「時」に向かっていたのです。

 さて、既に見てきたようにエルサレムの人々の中に「議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」という声が聞かれ、また群衆の中においても「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」とささやかれていることを耳にしたファリサイ派の人たちは、祭司長たちと共に、公然と話をしているイエスを捕らえるために下役たちを遣わします。「下役たち」というのは神殿の警備に当たっている役人たちです。彼らを送ったところで実際には逮捕はできないのですが、威嚇してイエスが神殿で教えることを止めさせることはできると考えたのでしょう。

 しかし、イエス様は怯むどころか、下役たちに対して、さらには彼らの背後にいるユダヤの当局者たちにはっきりとこう語られたのです。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」(33‐34節)。ここにはっきりと語られているように、御子は敵対する彼らのためにも遣わされていたのです。イエス様は父から遣わされた方として、彼らにも神の言葉を語っておられたし、彼らは確かに耳にしていたのです。それは恵みの時であったと言えます。しかし、それは永遠に続くのではありません。「今しばらく」なのです。終わりの時が来るのです。遣わされている時に受け入れないならば、もはや捜しても見つけることはできない。イエスがいる所、すなわち父のみもとに彼らはいることはできないと主は語られたのです。

 これを聞いてユダヤ人たちは互いに言いました。「・・・いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」(35節)。イエスが父のもとから来られたことを信じない彼らは、「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」という言葉がいかに深刻な事態を意味するかを理解することもなかったのでした。

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