2019年11月24日日曜日

「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」

黙示録1:4-8

恵みと平和が三位一体の神から
 今日はヨハネの黙示録をお読みしました。「黙示録」と呼ばれていますが、内容的には手紙です。時は紀元1世紀も終わりの頃。皇帝ドミティアヌスの治世。帝国規模に広がった迫害の中で苦しんでいた教会に宛てられた手紙です。

 それは集まって共に礼拝する中で朗読されるために書かれてた手紙でした。迫害の時代、集まることはそれ自体危険なことでした。しかし、共に礼拝することが命よりも大事だと思っていた人たちがいたのです。そのような人たちに大きな慰めと励ましを与えた手紙です。

 今日は4節以降が朗読されました。手紙ですから「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」という書き出しとなっています。パウロの手紙ですと、たいていは「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と続きます。しかし、ヨハネの黙示録では三位一体の神を念頭に置いて、挨拶が書かれています。

 まず、父なる神が、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と表現されています。続いて、聖霊については「玉座の前におられる七つの霊」と表現されています。「七」は完全を現す数字です。聖霊を「七つの霊」と言い表すのは、ヨハネの黙示録にしかない独特な表現です。

 そして、最後にイエス・キリストについては、「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」と表現されています。このような三位一体の神から「恵みと平和があなたがたにあるように」と挨拶の言葉が記されているのです。ここだけでも、三位一体の神様について、大変豊かな内容が語られています。

 しかし、今日は特に、この挨拶に続いて語られている言葉に耳を傾けたいと思います。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。このように、キリストが誉め讃えられています。ヨハネがこのように書いているのは、これを読んでいる私たちもまた、ヨハネと声を合わせてキリストを賛美するためです。先にも申しましたように、これは何よりも礼拝において読まれるために書かれた書ですから。

 さらに続いて、そのように礼拝されている御方が、再び来られることについて語られています。これをキリストの再臨と言います。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン」(7節)。

 次週から教会の暦においては「待降節(アドベント)」に入ります。教会暦の一年はアドベントから始まります。アドベントという呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。その「到来」とはキリストの到来です。この期間は第一に、キリストが二千年前に「到来した」ことに思いを馳せる時です。キリストが既に来られたことの意味を深く思い巡らすべき時です。しかし、それだけではありません。この期間は第二に、キリストが再び「到来する」こと、すなわち「キリストの再臨」に思いを馳せる時でもあります。こうして教会の一年を締めくくり、そのようなアドベントの季節を迎えようとしている私たちとして、私たちは今日の御言葉に耳を傾けているのです。

天に挙げられた御方が
 再び来られるキリストは、いかなる御方であるのか。まず、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」だと語られています。「わたしたちを愛し」――これは現在形で語られています。天に上げられたあの御方が、今、私たちを愛していてくださるのです。さらに言うならば、それは「愛し続けていてくださる」というニュアンスの表現です。どんな状態にあったとしても変わることなく愛し続けていてくださる。

 先にも申しましたように、最初にこの言葉を聞いた人たちは迫害の中にあったのです。しかし、救いの時が来て初めて私たちは愛していただくのではないのです。悲しみもある。苦しみもある。そのような現在において、私たちは愛されているのだ、と語られているのです。

 そのように私たちを愛してくださっている方が、私たちを罪から解放してくださいました。「罪から解放してくださった」は過去の一点を指す表現です。すなわち、あの十字架の時を指して語られているのです。私たちはキリストの十字架によって、罪の負い目から自由にされました。もはや私たちは自分の罪のゆえに滅びることはありません。代価は支払われました。罪の負債はすべて支払われました。「御自分の血によって罪から解放してくださった」とはそういうことです。

 さらに言えば、罪の負い目から自由にされただけでなく、本当は罪の力そのものからも既に解放されているのです。今はまだ戦いの中にあるかもしれません。葛藤は続いているかもしれません。しかし、既に勝利は定まっているのです。私たちはあの時、あの一点において、完全な救いにあずかって、完全に罪の力から解放されることが定まっているのです。「御自分の血によって罪から解放してくださった」とはそういうことです。

 そして、キリストは「わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司としてくださった方」だと語られています。それにしても、「わたしたちを王としてくださった」とは驚くべき言葉ではありませんか。

 ローマ帝国においては、それぞれの地域に支配者が立てられていました。その上に皇帝が支配していたのです。ですから皇帝は「地上の王たちの支配者」と呼ばれていたのです。しかし、聖書はそれに否を唱えるのです。「地上の王たちの支配者」は皇帝ではない。真の支配者はキリストであると。ですから5節ではイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているのです。そのキリストが支配する王たちとは誰か。それは私たちだというのです。私たちは最終的に、キリスト以外の何ものにも支配されることはないのです。罪も死も私たちを支配することはできないのです。キリストに支配される王ですから。

 そしてまた、キリストは私たちを「父である神に仕える祭司」としてくださいました。祭司は神と人との間に立つのです。もちろん、真に神と人との間に立って執り成してくださるのはまことの大祭司なるキリストだけです。しかし、その大祭司のもとにある祭司として、私たちもまた務めを果たすのです。

 私たちは自分の罪の赦しを求めるだけでなく、この世の罪の赦しを求めて祈ることができるのです。それは私たちの特権であり、また同時に義務でもあります。祭司として神に仕え、祭司として執り成し祈る義務です。考えてみますならば、まことに罪深い私たち自身がその罪を赦され、他者のために執り成すことが許されているということは、なんと驚くべきことかと思います。それはただキリストのゆえに与えられた恵みなのです。キリストが私たちを愛して、御自分の血によって罪から解放してくださったからなのです。

やがて再び来られる
 そのような御方が天におられる。そして、やがて再び来られるのです。再び来られることについては、次のように書かれています。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」

 キリストが「雲に乗って来られる」という表現は、もともと旧約聖書のダニエル書に用いられていた表現です(ダニエル7:13)。イエス様御自身も大祭司の前で「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問われた時、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ14:62)と言われました。

 「雲に乗って」と語られ、あるいは「雲に囲まれて」と語られる。それはあくまで表象を用いた表現です。実際には、キリストの再臨がどのように実現するのかは、私たちの理解を遙かに超えた出来事だと言わざるを得ないのでしょう。しかし、重要なことは、そこで「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」ということが起こる、ということです。どのような仕方で来られるにせよ、「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」のです。

 ことに「彼を突き刺した者ども」が仰ぎ見ると語られています。「突き刺した」が意味するのは、キリストを十字架にかけたということでしょう。「キリストを十字架にかけた者ども」と言いますと、「自分たちはそうしなかったけれど、そうした奴らは」と言っているように聞こえますが、そうではありません。これを受けとったキリスト者たちは知っているのです、キリストを十字架にかけたのは他ならぬ自分たちの罪であった、と。そうです、ここに書かれているのは、私たち自身を含めたこの世界のことなのです。

 それゆえに「地上の部族は皆、彼のために嘆き悲しむ」と書かれているのです。そのように、この世界全体に「嘆き」が起こるのです。間違えてはならないのは、ここに書かれている嘆きは、裁かれる自分を思っての嘆きではないということです。ですからあえて「彼のために嘆き悲しむ」と訳されているのです。裁かれる自分を思って嘆いているだけならば、「自分のために嘆き悲しむ」だけでしょう。

 「彼のために嘆く」というのは、キリストが何をしてくださったかが分かるということです。私たちの罪のために十字架の上で苦しんでくださったことが分かるということです。自分たちの罪がキリストを苦しめたのだということが分かるということです。「彼のために嘆く」とはキリストの御苦しみを思っての嘆きです。そのように人間の罪と、その罪を贖うためにキリストが苦しんでくださったという事実が、すべての人に明らかにされる時が来るのです。

 それがいつであるかは分かりません。いつであるかは知らされてはいません。ならば大事なのは「その時」ではなくて「今」です。そのような終わりの時に向かっている「今」を生きることです。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」の御前で、私たちは「今」どのように生きているのか。「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方」の御前で、私たちは「今」どのように生きているのか。その御方をやがてお迎えする私たちとして、私たちは「今」どのように生きているのか。そのことを自らに問いつつこの週を過ごし、アドベントを迎えましょう。

(祈り)

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