2019年9月29日日曜日

「走り寄る神」

ルカ15:11‐32

遠く離れていた息子
 今日お読みしたのは、イエス様がなさった有名なたとえ話です。

 ある人に息子が二人いました。ある時、弟の方が父親に財産の分け前を求めます。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と。財産分与の仕方は律法に定められていました。長男は他の者の二倍を受け取ります。ですからこの場合、弟の分け前は三分の一です。確かに、弟には弟の取り分があります。

 しかし、ユダヤ人の世界において、生前に父が子に財産を分与することは通常いたしません。仮に何らかの事情で財産を分与したとしても、父親が生きている限り全財産はあくまでも父親の権威のもとに置かれます。後で兄の方が父に「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」(29節)と言っていますが、財産を分けてやった後でも、これが普通なのです。子供は所有権を得るだけであって、財産を自分の自由にする権利は持たないのです。

 ところが、この息子は財産分与を求めただけではなく、「全部を金に換えて」旅立ったと書かれているのです。これは単に慣例を無視した行為であるだけではありません。下の息子は《既に父親を死んだものと見なした》ということを意味します。当然のことながら、この息子はそれまで自力で生きてきたわけではありません。生きるために必要なものを、父親より与えられて生きてきたのです。しかし、一切を父から受けてきたにもかかわらず、彼は父親を既に死んでいる存在と見なして行動するのです。

 これが下の息子と父親との、そもそもの関係です。それまで下の息子は物理的には父のすぐ側にいました。父の家にいたのです。遠くにいたわけではありません。しかし、心は既に遠く離れていたと言えるのでしょう。その意味では、彼が遠く離れたのは、旅立ったからではありません。既に彼は遠くにいたのです。父は彼にとって死んだ存在だったのです。父と子の間には、それほど大きな距離があったのです。

 これはあくまでもたとえ話です。イエス様は神と人との話をしているのです。実際、神と人とがこのような関係であることはあり得るのでしょう。神が近くにおられるにもかかわらず、人にとって神が死んだ存在でしかない。あるいは死んでいてほしい存在でしかない。そこから話は始まるのです。

 下の息子から父親の方へと目を移してみましょう。一般的に言いまして、ユダヤ人の社会において父親は家族に対し極めて大きな権威と強制力をもっています。モーセの律法によるならば、両親に反抗的な息子は石打ちの刑に処してよいことになっていたぐらいですから(申命記21:18以下)。この話の場合にも、父親は力ずくでこの弟を家に留め置くこともできたはずです。この息子を奴隷のように扱って、監視のもとに置き、家に繋ぎ止めておくこともできたでしょう。しかし、父はそうしませんでした。なぜでしょう。強制力によって心の関係は変わらないからです。

 そこで、なんと驚くべきことに、父親は要求通りに財産を分けてやるのです。イエス様の話を聞いていた人々は、「そんな父親がいるものか」と思ったかもしれません。しかし、神がこのような父親に喩えられる時、思い当たることがないわけではありません。神があえて人間の願う通りに、欲する通りになされることはあるのでしょう。この下の息子のように、心が神から遠く離れていたとしても、神を侮り、死んだ存在と見なしていても、それでもなお、願っていたことが実現し、求めていたものを手にするということは、起こり得ることです。そして、一般的には、神との関係がどうであれ、そのように願望が実現し、求めているものを手にすることを幸福と呼ぶのでしょう。

 しかし、イエス様が語られたこの物語は、願望の実現が単純に幸福を意味するのではないことをはっきりと示しています。というのも、この「下の息子」は明らかに不幸だからです。彼は父のもとにいながら父から遠く離れていました。それは不幸なことでした。そして、願ったことが実現したために、ますます彼は遠くに離れていきました。そのことはさらに不幸なことでした。この前に書かれている二つのたとえ話と同じことが起こっているからです。下の息子は、羊飼いのもとを離れて荒れ野にさまよっている羊と同じであり、女の手から離れて暗闇の中にころがっている銀貨と同じだからです。

 そして、それが不幸なことであるならば、その事実が明らかになる時がやってきます。彼は自らの不幸な状態に直面することになるのです。こう書かれています。「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた」(14節)。父から与えられたものが手元に満ちている時には、自分が父からどれほど遠く離れてしまっているか、その事実に気付きません。その不幸に気付きません。彼がそれに気付いたのは、与えられていたものが失われたときでした。

 間違ってはなりません。不運にもその地方にひどい飢饉が起こったから、彼は不幸に《なった》のではありません。既に不幸な状態にあったことが、飢饉によって明らかになったのです。私たちもまた、父なる神から与えられているものが手元に満ちている時には、父から離れていても、それが不幸なことであることになかなか気付きません。気付くのは、失った時です。

走り寄る神
 何かを得ることが必ずしも幸福を意味しないように、何かを失うことは必ずしも不幸を意味しません。それは下の息子にとってそうであったように、ハッと「我に返る」機会でもあるからです。わたしは、今、ここで、何をしているのだろう。――今、父のもとにいない自分であることに気づきます。遠く離れている自分に気づきます。そして、気づいたなら、帰ればよいのです。

 彼は言いました。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてくださいと』」(18‐19節)。そして、彼は方向を変えて一歩を踏み出し、歩き始めました。神と人との話です。遠く離れていることに気づいたならば、方向を変えて具体的に一歩を踏み出し、歩き始めるのは人間がすることです。これを悔い改めと言います。

 しかし、人間の決心と行為、人間の悔い改めによって全てが完結するのではありません。20節には、「まだ遠く離れていたのに」と書かれているのです。家の近くまで来ていながら、父と子との間には、まだ長い距離があったのです。それはそうでしょう。自分で言っている通り、もう息子と呼ばれる資格はないのですから。

 では、その距離を誰が埋めたのでしょう。この息子ではありません。父親だったのです。そうイエス様は言っています。父親が息子を見つけたのです。父親が憐れに思ったのです。父親が走ったのです。そうです、父親が走ったのです!そして、首を抱き、接吻しました。この父親によって、その距離がゼロになったのです。そして、父親は僕たちに命じます。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履き物を履かせなさい」(22節)と。遠く離れていた息子でした。息子と呼ばれる資格のない息子でした。しかし、父はあくまでも息子として迎えます。そこで息子は本当の意味で息子となったのです。

 そのように、最終的に人と神との距離を埋めてくださるのは神御自身です。父が子に走り寄るのです。神が人に走り寄るのです。これを語っているイエス様は、それが何を意味するのかを誰よりも分かっていたのでしょう。御自分が地上に存在していることこそ、まさに人間に走り寄る父の姿を映し出しているのだということを。父なる神がキリストを世に遣わされたとはそういうことでしょう。私たちの罪のために独り子を十字架にかけられたとはそういうことでしょう。私たちが何かをしたからではなく、神が打ち立てられたキリストの十字架のゆえに、十字架による罪の贖いのゆえに、距離はゼロとなるのです。私たちは恵みによって、ただ神の恵みによって、神の子として生きるのです。

同じく遠く離れている者
 さて、話はそこで終わってはおりません。ここで兄が登場してくるのです。下の息子が帰ってきた時、兄は畑におりました。父親が帰ってきた息子のために「食べて祝おう」と言って祝宴を開き、弟が父のもとで飲み食いしていた時、兄は畑でせっせと働いていたのです。畑から帰って音楽や踊りのざわめきを耳にした兄が、その祝宴の理由を知って怒り狂います。祝宴に加わろうとはしません。無理もなかろうと思います。

 彼の主張は正当です。兄は父親にこう言いました。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(29‐30節)。

 とりあえず私たちは、彼の言葉を額面通りに受け取ることにしましょう。事実、言いつけに背いたことは一度もなかったのでしょう。彼も人間なのだから、親に隠れて悪いことの一つや二つしているはずだ、などと意って、この兄を悪者にする必要はありません。いずれにせよ、彼が本当に正しい人間かどうかということは、この際、どうでも良いのです。既に下の息子について見てきたように、問題は放蕩息子が真人間になったことではないのです。重要なのは父と息子の間の距離なのです。この兄と父との間でも重要なことは同じです。両者の間の距離なのです。

 父はこの兄息子に言います。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(31節)。そうです、兄はいつも父と一緒にいたはずでした。しかし、彼は今、父の喜びを自分の喜びとすることができません。父と喜びを共有することができません。父が喜びとしている自分の弟を、この兄息子は「あなたのあの息子」(30節)と呼んでいます。「わたしの弟」とは呼ばないのです。その意味において、この兄は自分の弟から遠いところに身を置いているのです。それゆえに、父の喜びからも遠いところに身を置いているのです。かつて下の息子が父から遠く離れていたように、兄もまた父から遠く離れているのです

 ここにおいても、その距離を埋めるために動いているのは父親です。父親の方が家から出てきて、入ろうとしない兄に近づくのです。父は上の息子の心に語りかけ、父と喜びを共にするよう招くのです。ならば、この兄にとっての悔い改めとは何でしょうか。より良い人間になることではありません。父が愛している弟を受け入れ、父と共に祝宴の席に着くことなのでしょう。そのようにして、この兄もまた本当の意味で息子となるのです。

 既にキリスト者となって久しい人、既に神の子としての自覚をもって長い間神に仕えてきた人においては、もしかしたらむしろ、この兄に求められているような悔い改めが求められているのかもしれません。真に神の子として父の喜びを共有して生きるために。

(祈り)

以前の記事