2019年3月31日日曜日

「私たちは変わり得るのか」

ルカ9:28-36

仮小屋を三つ建てましょう
 ペトロ、ヨハネ、そしてヤコブは、イエス様に連れられて山に登りました。山の上は非日常的な世界です。そこには押し寄せてくる群衆もいません。論争をしかけてくる律法学者たちもいません。ただイエス様と共に、神と共に過ごすことのできる静かな時間だけが流れていました。

 しかも、その夕べは特別でした。不思議な夜でした。眠い目をこすりつつ彼らが目にしたのは、まさにこの世のものとは思えない光景でした。そこには栄光に輝くイエスがおられました。その衣は真っ白に輝いていました。見ると、そこには栄光に包まれた二人の人がイエスと共にいるではありませんか。モーセとエリヤです。旧約聖書を代表する二人の人物が、イエス様と語り合っていたのです。

 ペトロは思わず叫びました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです!」それはそうでしょう。ただ日常を離れた安らぎの時が与えられただけでない。今まで体験したことのないような神秘的な光景を目にしているのですから。ですからペトロはさらにこう言ったのです。「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。

 「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。」そう聖書は説明します。確かに訳の分からぬことを口走っています。にわかに仮小屋三つなんて立てられませんから。しかし、それでもペトロの気持ちは理解できます。彼は少しでも長くそのままでいたかったのでしょう。ずっとそのまま、イエスとモーセとエリヤと一緒にいたかったのでしょう。そのような神秘的な世界の中に少しでも長く留まりたかったに違いない。

 そのように言っているペトロにとって、山の下で待っている他の弟子たちのことなどもはや頭になかったと思います。苦しみの中から必死でイエス様を求めて集まってくる多くの群衆のことなども、もうどうでもよかった。宣教の旅のことも、メシアの王国の実現も、もはやどうでもよかったのです。

 もう日常の生活などに戻りたくない!仮小屋建てますからここに留まりましょう。――しかし、ペトロの提案は却下されました。彼が語っていると、雲が現れて彼らを覆いました。そして雲の中から声がありました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。もはやモーセとエリヤはそこにはいませんでした。ただイエス様だけが共におられました。今日私たちが耳にしているのはそのような話です。

これに聞け
 イエス様は「祈るために山に登られた」と書かれています。そして、「祈っておられるうちに」と書かれています。この福音書を読んでいますと、繰り返しこのような祈るキリストの姿に出会います。ある時はこのように山の上で、ある時には寂しい所に退いて祈っておられます。そのように、主はしばしば日常の働きから退かれて、父なる神と親しく過ごす時間を持っておられたのです。

 父なる神と共に過ごす時間。それはイエス様にとってどのような意味を持っていたのでしょう。日常を離れた山の上での時間。――それは日常の苦しみを一時的に忘れさせてくれる現実逃避の時間ではありませんでした。それだけははっきりしています。山の上で、イエス様はモーセとエリヤと何を語り合っていたか。こう書かれていますでしょう。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(31節)。

 この祈りの山においても、イエス様は山の下における現実を忘れることはありませんでした。御自分がどこに向かっているかを決して忘れることはありませんでした。イエス様はエルサレムに向かっておられたのです。十字架へと向かっておられたのです。十字架へと続く苦難の道を歩んでおられたのです。イエス様は山の上で、モーセ、そしてエリヤと、そのことを語り合っていたのです。

 イエス様にとって、祈りの山は、十字架への道から外れたところにあるのではなく、まさにその途上にありました。いわば待ち受ける苦難と向き合うことができるように、エルサレムへと向かうことができるように、そのためにこそ、この一夜を山の上で過ごされたのです。

 そのようなイエス様の祈りの姿を、私たちはこの後にも再び見ることになります。イエス様が捕らえられて十字架にかけられる直前のことです。その時も主は弟子たちと山の上におられました。弟子たちと共にオリーブ山に行き、そこで祈られたのです。主は苦しみもだえながら、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。そうです、そう祈っておられた。しかし、イエス様がその祈りの中に留まったのは、最終的に杯を取りのけてもらうためではありませんでした。与えられた使命から逃れるためではありませんでした。そうではなくて、父への心からの信頼をもって、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(22:42)と祈るためだったのです。天の父から杯を受け取って飲み干すためでした。その祈りの山もまた、十字架への道の途上にあったのです。

 そのように、イエス様が山に登られたのは、再び降りていくためでした。父に愛されている子として確信をもって、背負うべきものを背負うために、再び下っていくためでした。だからこそ、天の父は山の上でこう言われたのです。「これはわたしの子、選ばれた者」と。イエス様は山の上に留まられる御方ではありません。父なる神の子として、選ばれた者として、エルサレムへと向かわなくてはならないのです。

 だからペトロも山の上に仮小屋を作ってはならないのです。ペトロに求められているのは、そんなことではないのです。神はこう言われたのです。「これに聞け」と。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(35節)。

 「これに聞け」とは「これに聞き従え」という意味です。弟子たちもまた、山の上の非日常的な時間に留まっていてはならないのです。ただその非日常的な時間を喜んで楽しんでいるだけであってはならないのです。彼らはイエス様の御言葉に聞き、そして従っていくことを求められているのです。主と共に再び山を下り、十字架へと向かうイエス様に従っていくことが求められているのです。

 実際、今日の箇所はこのような言葉から始まっていましたでしょう。「この話をしてから八日ほどたったとき」。わざわざ「この話をしてから」と書かれているのです。「この話」とはどんな話ですか。その直前において、イエス様は御自分の受難を予告して、こう話されたのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)。「日々」と語られています。それは日常でのことです。毎日のことです。毎日の現実において十字架を放り出さずに背負ってイエス様に従うようにと語られているのです。そのことが、もう一度山の上で示されたのでした。神自ら弟子たちに「これに聞け」と語られたのです。

栄光に輝くイエス
 そのようにこの物語を読んできますと、これは単なるペトロたちの個人的な神秘体験の報告ではないことが見えてきます。これは教会の話です。イエス様は祈るために山に登られました。しかし、一人で登られたのではなく、イエス様は御自身の祈りの世界に、三人の弟子たちを招かれたのです。そこに世々の教会は自分たちの姿を見てきました。祈りへと導かれた自分たちの姿を見てきたのです。特に、主の日において、主によって招かれて、祈りを共にする教会の姿を、そこに見てきたのです。これは主の日に集められている私たちの話でもあるのです。

 私たちは日常の生活をしばし離れて、この礼拝堂に集まります。神に向かう場所へと、祈りの世界へと導き入れられます。しかし、当たり前の話ですが、私たちはこの礼拝堂に留まるのではありません。再びここから出て行きます。私たちはここから出て行くために、ここに集められるのです。ここから出て行けば、そこには日常の生活があります。そこで私たちは主の言葉を聞くのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

 そして、私たちも良く知っているように、この世の現実の中で、神を愛し、人を愛し、キリストに従って行こうとするならば、本当の意味で自分の罪深さとも向き合わなくてはならなくなります。

 キリストに従おうとするならば、自分にしがみついて自分を捨てようとしない自分自身とも向き合うことになります。自分の十字架を背負おうとしない自分自身とも向き合うことになります。「天の父よ」と祈る神の子どもとされていながらも、神の子の姿からはほど遠い、醜い自分に涙することにもなるのでしょう。そうです。あの山に共にいたペトロも、後に山の下において、自らの姿に涙することになりました。

 ただ非日常の世界に逃げ込み、現実逃避の時間を楽しむだけならば、自分の罪深さは問題にならないかもしれません。しかし、山の下においてキリストに従って行こうとするならば、罪の赦しを求める祈りも切なるものとならざるを得ないでしょう。そして、私たちは変えられなくてはならないことも明らかになります。はたして今のこのわたしが最終的なわたしなのか。今のこの姿が私の最終的な姿なのか。わたしたちは変わり得るのか。そう自問せざるを得なくなります。

 そのような私たちだからこそ、あの山の上での出来事は伝えられているのです。変えられたキリストの御姿です。「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」。そう書かれていました。その姿は32節では「栄光に輝くイエス」と表現されています。栄光に輝く姿に変えられた御方がそこにいたのです。

 ここで「祈っておられるうちに」と書かれていました。それは変化が天の父によることを表しています。イエス様が自分の力で変化したのではないのです。マルコによる福音書では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」と書かれています。原文では「変わった」のではなく、「イエスの姿が《変えられた》」とわざわざ受け身で書かれています。イエス様は神の御子でありながら、あくまでも私たちの一人として、天の父によって「変えられた」姿でそこに立っていたのです。

 神は後にキリストの復活において完全に現される神の子の栄光をかいまみせてくださいました。それはまた、最終的に完全に救われた私たちの姿でもあるのです。罪からも死からも解放された、神の子としての栄光に輝く姿です。先ほど、「今のこの姿が私の最終的な姿なのか」と申しました。――いいえ、そうではありません。この主と同じ姿こそ、私たちの最終的な姿です。

 本日の第二朗読ではパウロの手紙が読まれました。そこにはこう書かれていました。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。私たちもまた「変えられる」のです。主と同じ姿に。この「主と同じ姿に」とは、ペトロたちがかいま見た復活の栄光の姿のことです。私たちは山の上でこの希望をいただいて、山の下に向かうのです。私たちは希望を与えられている者として、主イエスに従っていくのです。


(祈り)

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