「主の恵みの年」の到来
イエス様が故郷のナザレに帰られたときの話です。安息日に、いつものようにイエス様は会堂に入られます。預言者イザヤの巻物を手渡されると、それを開いてある箇所を見つけ、朗読されました。そして、こう宣言されたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(20節)と。このようにしてイエス様は会衆に話し始められました。これを聞いた人々の反応は次のように書かれています。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」(22節)。
彼らはイエス様の言葉に驚いたのです。その恵み深い言葉(直訳すると「恵みの言葉」)に驚いたのです。彼らが驚きをもって耳にしたその「恵みの言葉」とはいったい何だったのでしょう。私たちは、最初の語り出しの部分しか伝えられていません。それはとても残念なことですが、ある意味では、それで十分ということなのでしょう。イエス様が朗読された聖書の言葉そして語り出しの宣言が、「恵みの言葉」の内容を指し示しているからです。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。そうイエス様は言われました。イエス様が言われる「この聖書の言葉」は直前に朗読された言葉ですが、それは次のように始まっています。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」。イエス様が「キリスト(油注がれた者)」であるとはこういうことです。そして、その福音の告知は最終的にどこに行き着くのか。「主の恵みの年を告げるためである」と書かれていました。このことが実現したというのです。「主の恵みの年」がついに到来した。「主の恵みの年」が、今、告げ知らされている。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」――それがイエス様の語られた「恵みの言葉」の内容です。
「主の恵みの年」が到来した。「主の恵みの年」が告げ知らされている。それは何を意味するのでしょう。「主の恵みの年」とはもともと、50年に一度巡ってくる特別な年のことです。「ヨベルの年」と呼ばれます。「ヨベル」とは角笛を意味します。その年の新年には国中で角笛が吹き鳴らされるので「ヨベルの年」と呼ばれているのです。
「ヨベルの年」についてはレビ記25章に詳しく書かれています。簡単に言えば、それは50年に一度やってくる「解放の年」のことです。例えば、貧しさのゆえに自分自身を奴隷として身売りしてしまった人がいるとします。ヨベルの年になると無条件に解放され、借金もゼロになります。あるいは、貧しさのゆえに土地を手放してしまった人がいるとします。その人はヨベルの年には無償で土地を返してもらえるのです。これがモーセの律法に定められていることです。(イスラエルにおいてそれが実際に行われていたかというと、どうもそうはいかなかったようなのですが、ともかくそのような年が神によって定められていたのです。)このように貧しい者が、自分が何かをしたからではなく、その資格や権利があるからではなく、まったくの恵みとして解放され回復される年、それがヨベルの年です。これが「主の恵みの年」です。
そのような「主の恵みの年」が到来し、「主の恵みの年」が告げ知らされているのだ、とイエス様は言われたのです。もちろん単に50年毎に繰り返されることになっている借金帳消しの話ではありません。それは所詮、人と人との間のことです。究極において重要なのは人と人との間のことではありません。神と人との間のことです。人間にとって本当に必要なのは、神に対する負い目が帳消しにされ、神によって赦され、神によって救われるということなのでしょう。それこそが永遠の意味を持つのです。
イエス様はそのような最終的な「主の恵みの年」の到来を告げているのです。あの律法に定められた「ヨベルの年」と同じように、神による赦しと救いが、ただ一方的な恵みとして与えられるのです。その資格があるからではなく、その権利があるからではなく、人間の行いに対する報いとしてでもなく、あの「ヨベルの年」のように、ただ一方的な恵みとして、無償の恵みとして、神による赦しと救いが与えられる。そのような「主の恵みの年」がイエス・キリストと共に到来したのです。それは良き知らせです。これぞまさに「福音」です。人間にとって、これ以上の福音、これ以上の良い知らせはありません。
しかし、ここでもう一度「ヨベルの年」について考えてみてください。「ヨベルの年」が実際に行われたとしたら、国中みんなが喜ぶことになるでしょうか。いいえ多分そんなことはないでしょう。ヨベルの年が来て嬉しいのは、「貧しい人」だけです。神の恵みが嬉しいのは貧しい人だけなのです。ですからイエス様が朗読した箇所にも、「《貧しい人》に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」と書かれているのです。
そのように、イエス様の口から出る恵みの言葉を「福音」として聞くことができるのは「貧しい人」だけです。経済の話ではありません。救いの話です。無償の恵みによらなければ決して救われ得ないと分かって、恵みを恵みとして受け取るしかない「貧しい人」。イエス様が宣言してくださった「主の恵みの年」を現実に喜びをもって生きることができるのは、そのような「貧しい人」です。すると問題は、ここにいる私たちはどうなのか、ということでしょう。「貧しい人」なのかどうか。実は、続くイエス様の言葉こそ、まさに私たちにそのことを問いかけているのです。
良き知らせは貧しい人に
人々は、イエス様の語られる恵みの言葉に驚きました。それはそうでしょう。小さい時から知っているあのヨセフのせがれが、主に油注がれたメシアとして、神の権威をもって、無償の恵みによる救いの到来を宣言したわけですから。それは驚いたに違いない。しかし、それでもここまでは人々の反応はおおむね好意的だったのです。「皆はイエスをほめ」と書かれていましたでしょう。
ところがそこから次第に雲行きが怪しくなってくるのです。主が彼らに言われた言葉をもう一度お読みいたします。「イエスは言われた。『きっと、あなたがたは、「医者よ、自分自身を治せ」ということわざを引いて、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うにちがいない。』そして、言われた。『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった』」(23‐27節)。
この「エリヤの時代云々、エリシャの時代云々」という話。実は、これは聞いている人々にとっては私たちが想像する以上に過激で辛辣な言葉です。エリヤの話にしてもエリシャの話にしても、要するに《神の恵みを受けたのは神の民を自負するイスラエル人ではなくて異邦人だった》」という話なのですから。そのような話を、よりによって会堂に集まっているユダヤ人に話しているわけです。「『主の恵みの年』は到来したのだけれど、神の恵みを受けるのはあなたがたではなく、あなたがたが汚れていると言い、あなたがたが軽蔑して馬鹿にしているあの異邦人たちだ」とイエス様は言っているのです。救われるのはあなたがたじゃなくて、救われるはずがないとあなたがたが思っているあの異邦人たちなのだ、と。
これを言われたら腹が立つでしょう。もうそこにいた全員が、イエス様を殺したいほどに腹を立てたのです。彼らはイエス様を町の外に連れて行って崖から突き落とそうとした。それほど腹を立てたのです。イエス様だって分かっていたはずです。これを言ってしまったら普通のユダヤ人なら絶対にキレると。イエス様はどうしてこのようなことを言ったのでしょう。
それは彼らが「貧しい人」ではなかったからです。いや、本当は貧しいのに、貧しいことが分かっていないからなのです。貧しいことが分からないから、恵みを恵みとして受け取ることができなくなっている。せっかくメシアの到来と共に「主の恵みの年」が到来したのに、恵みを受け取ることができなくなっている。本当に神が恵みを現されたときに、その恵みは恵みとして受け取られず、彼らにとっては腹立たしいものにしかならない。イエス様にはその悲しい現実が痛いほどに分かっていたのです。
主は言われました。「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うに違いない、と。イエスを通して現された神の御業、他で現された神の奇跡は、自分たちにも現されて然るべきだと思っている、ということでしょう。イエスがメシアだと言うならば、自分たちにも何かをしてくれて当然ではないかと思っている。そして、イエス様は分かっているのです。彼らは異邦人については決して同じことを言わない。異邦人に対して神が奇跡を現されたら、「そんな馬鹿な!」と思うに決まっている。「神が異邦人たちを救われる?あんな汚れた連中を救われる?とんでもない!」そう言うに決まっている。だからイエス様はあえてエリヤやエリシャの時代の話を持ち出して彼らに言われたのです。神の恵みを受けるのは、あなたたちじゃなくて異邦人たちだ、と。
彼らは案の定腹を立てました。猛烈に腹を立てました。それがすべてを物語っています。彼らの内にあるものが、こうして表に出て来たのです。「あなたたちが受けるのではない」と言われて怒るのは、「受けて当然だ」と思っているからです。「受けるのは別の誰かだ」と言われて怒るのは、「そいつらよりも自分の方が相応しい」と思っているからです。
この彼らの怒り狂った姿は、私たちに対する問いかけに他なりません。あなたも彼らと同じなのか、と。それとも、貧しさのゆえに土地を失った人々のように、貧しさのゆえに身売りした人のように、全く神の憐れみにすがるしかない者としてここにいるのか。ただ向こう側から来る一方的な恵みによってしか救われないと自覚する者であるのか。そのような「貧しい人」であるのか。聖書は私たちに問いかけているのです。
メシアは来られました。「主の恵みの年」は到来しました。救いは無償の恵みとして与えられます。私たちは赦された者として、救いを与えられた者として、「主の恵みの年」を生き始めてよいのです。そして、最終的に神の国において完全な救いが与えられることを信じてよいのです。しかし、その神の救いを味わい知るのは、貧しい人です。資格があるとかないとか言い出さず、相応しいか相応しくないかと言い出さず、ただ恵みに寄りすがる人です。恵みを純粋に恵みとして受け取る貧しい人です。主は貧しい人に福音を告げ知らせてくださいます。福音を福音として受け取り、恵みを恵みとして受け取る人は幸いです。
(祈り)