日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 21章1節~14節
その夜は何もとれなかった
20章には、弟子たちがまだエルサレムにいた時、イエス様が彼らに二度にわたって姿を現されたことが記されていました。一回目はキリストが復活された週の初めの日の夕方。二回目はそれから八日目の日曜日のこととして書かれていました。今日お読みした箇所は、「その後」という言葉で始まっています。先の二回の顕現に続き、三回目にイエス様が弟子たちに御自身を現された次第がここに記されているのです。
場所はエルサレムからティベリアス湖畔、すなわちガリラヤ湖畔に移っています。ペトロをはじめ、他の弟子たちは、もともと彼らがいた生活の場に戻っています。今日お読みした箇所において弟子たちがしていることは、およそ三年半前まで、つまりイエス様に従い始める前まで、日々繰り返していたことと基本的には同じです。漁師である彼らが漁をしているのです。
ペトロが言いました。「わたしは漁に行く」。他の弟子たちも言いました。「わたしたちも一緒に行こう」。そのようにして共に漁に出ます。あいにく、その夜は何も取れませんでした。大漁の日もあれば不漁の日もあります。それが漁師の日常です。魚がとれないときの惨めさや虚しさ、疲れ果てて迎える朝。それもまた彼らがこれまで幾度となく味わってきたことに違いありません。彼らがしていることは三年半前と何も変わっていないように見えるのです。
しかし、それにもかかわらず、決定的に異なることがあります。キリストは既によみがえられたということです。そして、彼らはその復活のキリストの弟子たちであるということです。
そうです、ここに描かれているのは、復活したキリストの弟子たちの話なのです。その意味において、これは復活したキリストに従う教会の話であり、今日ここにいる私たちの話でもあるのです。
「しかし、その夜は何もとれなかった」。そう書かれていました。確かにこれはあの時のペトロたちの経験だけでなく、後の教会もまた幾たびも繰り返し味わってきたことなのでしょう。
かつてイエス様はシモン・ペトロに言われました。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)。そのように後のペトロやパウロ、後の教会がしてきたことは、神のもとに人間をすなどる漁師の働きであったと言えるでしょう。そのようにして、私たちもまた漁られて神のもとにいるのです。しかし、教会の働きは常に大漁であったわけではありません。「しかし、その夜は何もとれなかった」と書かれていることを、世々の教会もまた繰り返し味わってきたのです。
私が以前使えていた教会が立っているその土地は、かつてある宣教師が住んでいた場所でした。しかし、その宣教師は働きの実りを見ることなく、他の地に移らなくてはなりませんでした。「しかし、その夜は何もとれなかった」。その宣教師もまたその悲哀を味わったのだと思います。どんなにか残念な思いを抱いて移っていったことでしょう。しかし、そのようなことは確かにこの世で起こります。
あるいはもっと広く、私たちの日常の営みを考えてみても良いかも知れません。無駄に潰えたと思える労苦があります。無駄に過ごしたとしか思えない時間があります。ただ残ったのは空しい思いと疲れだけ。そんな時が確かにあるものです。ここに見るペトロたちの姿は、時に私たちの姿でもあるのでしょう。
主だ!
しかし、そのような彼らに目を留めていた方がおられたと、この聖書箇所は伝えているのです。復活されたキリストです。復活の主が彼らの労苦に確かに目を留めておられた。主は言われました。「子たちよ、何か食べる物があるか」。これは「何か捕れたか」ということです。実は、この言葉は否定の答えを想定した問いなのです。新改訳聖書は「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と訳していました。「何にもとれなかったんだろう?」と主は聞いておられるのです。そう、主は分かっておられる。そして、彼らの落胆をも心にかけておられるのです。
しかし、弟子たちはそれがキリストだとは気づきませんでした。彼らは「ありません」、「捕れませんでした」と答えます。すると、主は彼らにこう言われます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)。彼らがその声に従って網を打ってみますと、なんと夥しい魚が網にかかりました。もはや網を引き上げることができないほどです。その時ひとりの弟子が叫びます。「主だ!」
その弟子は思い出したのでしょう。かつても同じことがあったことを。弟子として従い始めたあの日、やはり夜通し働いて何もとれませんでした。あの時、疲労困憊していた彼らにその方は言われたのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。その時、ペトロは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って網を降ろしました。すると、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(ルカ5:6)のです。
確かに今回も網を降ろしたのは彼らです。しかし、そこに見たのは彼らの努力や労苦の実りではありませんでした。それはまさに主が彼らを用いて成し遂げられたことでした。
そのようなことが確かに起こるのです。主は復活され、生きておられるから。一方において空しく潰えていくかに見える労苦があります。しかし、気に病む必要はありません。主は目を留めておられますから。そして、主は人の業を用いて神にしか為し得ないことをしてくださるのです。 人はその時気づくのです、「主だ!」と。
それは、私たちが知る前から、気づく前から、疲れ果てていたその時から、実は既にそこに主がおられたという気づきでもあります。それは大きな喜びです。それは大漁を得たことにまさる喜びです。だから、「主だ」と聞くと、たくさん捕れた魚のことなどそっちのけで、ペトロは海に飛び込んだのです。主のもとに行くためです。彼の内にあったのは主が共におられる喜びでしょう。いや、既に共におられたのだ、ということを知った喜びと言ってよいでしょう。
ところで、先ほど申し上げたその宣教師の話ですが、時を経てその土地に教会が建っていることを彼は知りました。空しく労していたと思っていたその土地にいつの間にか教会が建っていることを知った喜び、それがどれほど大きな喜びであったことか!去年初めてお会いした時に、私にその喜びを語ってくれました。それは単に労苦が報われたということではありませんでした。その喜びはまさに「主だ!」と叫んだあの弟子の喜びであり、「主だ!」と聞いたペトロの喜びだったのです。主は目を留めておられた。そして、主が御業を現してくださった。主は確かに共におられた。そして、共におられる。そのことを知る喜びです。
そして、もちろんその「主だ!」と語る喜び、そして「主だ!」と聞く喜びは、今日の私たちにも与えられているのです。主は復活されましたから。主は生きておられますから。この教会にも、私たちの人生にも、主が生きて働いておられるのです。私たちは現実の生活の中でそのことに気づかされるのです。「主だ!」と。それが私たちの信仰生活です。
さあ、来て、朝の食事をしなさい
さて、ペトロは泳いで陸に向かい、他の弟子たちは網を引いて、舟で戻って来ました。すると次のように書かれています。「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」(9節)。既にそこには魚もパンも用意されていたのです。なんと彼らが夜通し何も捕れないまま疲れ果てていた時に、既に復活の主は炭火を起こし、魚もパンも用意してくださっていたのです。そして、主はこう言われるのです。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。
そして、さらにこう書かれています。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(13節)。パンを取って与えられる姿、魚を与えられる姿を見て、彼らはかつてこの同じティベリアス湖畔で見た出来事を思い出したに違いありません。あの時、五つのパンと二匹の魚をもって男だけでも五千人に及ぶ人たちを養われたことを。その時にイエス様はこう言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る物は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(6:35)。
あのときと同じことが、今、この小さな弟子たちの集まりにおいて起こっているのです。彼らはまさに命のパンを受け、命の養いをそこで得ているのです。そして、それこそ世々の教会が味わってきたことでもあるのです。
わたしはここを読んで思います。彼らは確かに大漁を得て、多くの魚と共に帰ってきました。しかし、彼らが何も捕れないまま疲れ果てたまま帰ってきたらどうだったろうか。そうだとしても、そこには炭火が起こしてあり、パンも魚も用意されていたことでしょう。そして、主は同じように言われたに違いありません。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と。
そして、それが復活の主であることを知っていたならば、「主だ!」という喜びがそこにあったなら、仮に多くの魚と共になくても、やはりその食卓には大きな喜びが溢れたのではないでしょうか。復活の主に迎えられたのですから。そして、復活の主に養われているのですから。
それこそ世々の教会が味わってきた恵み、聖餐の恵みに他ならないのでしょう。主が用意してくださる。主が迎えてくださる。主が養ってくださるのです。実際、イエス様が十字架におかかりになり、その命をもって用意してくださり、その罪の贖いをもって迎えてくださり、その体と血とをもって養ってくださることが、復活の主によって招かれたその食事に象徴的に表されているとも言えるのです。
「しかし、その夜は何もとれなかった」。確かに時としてそのような夜を通らざるを得ない私たちの生活であり、教会の歩みなのでしょう。しかし、それでも朝が来るのです。「しかし、その夜は何もとれなかった」。そのような毎日であっても、必ず日曜日は来るのです。そして、そこには既に主が炭火を起こしてパンも魚も用意してくださっている。それが日曜日に起こっている出来事なのです。たとえ仮に全てが徒労に終わったように思える夜を過ごしたとしても、朝日の中で主が迎えてくださり、主はこう言ってくださるのです。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と。それが私たちの信仰生活です。