2013年5月19日日曜日

「満たされていますか?」


2013年5月19日  ペンテコステ礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章1節~13節


御心が成るために
 私たちは先ほど「主の祈り」を祈りました。その中で「御国を来らせたまえ」と祈りました。「御国に入れてください」と祈ったのではありません。御国、神の国が「来るように」と祈っているのです。どこにですか。この地上にです。神の国が来るとはどういうことでしょう。神の国とは神の支配のことです。神の支配が実現することです。その意味するところは、主の祈りにおいて、さらに明確に祈られています。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。私たちは、地の上に、御心が実現するように祈っているのです。

 「御心が行われますように」と祈っているということは、まだ御心は実現していない、少なくとも完全には実現してはいない、ということを意味します。この世界を見てください、人々が憎みあい、殺し合っているこの世界は、神の御心が完全に実現した世界ですか。これが神の国ですか。とんでもない。私たちの仕事場は、神の御心が実現した仕事場ですか。神の国ですか。私たちの家庭はどうでしょう。神の御心が完全に実現している家庭ですか。神の国ですか。子供たちの通う学校はどうですか。天に神の御心が実現しているように、この地の上に実現していますか。いいえ、実現してはおりません。

 だから、私たちは祈り続けているのです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と。イエス様は、「このように祈りなさい」と言って、主の祈りを与えてくださいました。イエス様は、私たちが一生をかけて一心に求めるべきものを明らかにしてくださったのです。言い換えるならば、イエス様は私たちの人生の目的を与えてくださったのです。それは神の御心が成ことを求めて生きることです。私たちの人生はそのためにあるのです。主の祈りを真面目に祈っている人は、少なくとも「私は何のために生きているのだろう」などという悩み方はしないはずです。なぜなら、求めがはっきりしているからです。神の御心の成っていない悲惨極まりないこの世界に、神の御心が成るために、私たちは生きるのです。生きていくのです。

 しかし、私たちはもう一方で良く知っています。私たちは、この手で、この自分の力で、神の国を実現することはできません。神の御心を実現することはできません。この世界を支配する罪の力、死の力、悪魔の力、地獄の勢力の方が、圧倒的な現実として私たちに迫ってまいります。私たちの為しえることは、あたかも山火事に向かってコップの水を投げかけるようなことでしかないと感じます。私たちは、身近な一人の人間をも変え得ないような者ではありませんか。いやそれどころか、我が身一つどうすることもできないのです。それが私たちの現実です。

 ですから、一つのことは明らかなのです。私たちが主の祈りを真面目に祈るならば、その実現のためには、神様においでいただかなくてはならない、ということです。神様に来ていただいて、御心を実現していただくしかありません。だから神様を求めるのです。この世界に来て働かれる神の霊、聖霊を求めるのです。私たちの内に住んでくださり、私たちを用いて、私たちを通して働いてくださる神の霊、聖霊を求めるのです。聖霊によらずして、どうして地上に御心が実現するでしょうか。どうして、神の支配が実現するでしょうか。聖霊によらずして、どうして私たち自身の罪、また世界の罪が克服されることがあるでしょうか。そして、最終的にはキリストが再び来られることなくして、どうして救いが完成することがあり得るでしょうか。

 イエス様の弟子たちは、そのことを良く知っていたのだと思います。つくづく自分の無力さを知った人々だからです。彼らはキリストが十字架にかけられたときに、主を見捨てて逃げ去ってしまった人々です。この世の罪の前に、そして自分の罪の前に、完全に敗北した人々です。エルサレムの街角に見る景色の一つ一つが、自分の弱さと自分の罪にまつわる忌まわしい記憶を呼び起こしたに違いありません。ですから、彼らは神様においでいただくしかないことを知っていたのです。神の霊においでいただくしかなかったのです。父の約束してくださった聖霊を待ち望むしかなかったのです。

 だから、彼らは祈り求めて待ちました。待ち望みました。それが今日お読みした聖書箇所の背景です。そして、そのように祈り求めて待ち望んだ彼らは一同は、「聖霊に満たされた」と書かれているのです。その場面の描写は摩訶不思議なものです。このような箇所に奇異な印象を持たれる人もあろうかと思います。しかし、重要なのは、ここに描かれている不思議な出来事そのものではありません。その結果です。一同が聖霊に満たされた、ということです。

 私たちは、これを教会の誕生と見ることもできますし、教会の宣教の開始として見ることもできるでしょう。その意味において、これは歴史の中において起こった一回限りの決定的な出来事です。しかし、ここに語られています、「聖霊の満たし」そのものは一回限りの事ではありません。すぐ後の4章において、彼らは再び聖霊に満たされます(4:31)。その後、私たちは聖霊に満たされて力強く働いているパウロの姿をも目にします。また彼自身、エフェソの信徒の手紙の中で次のように語っています。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい」(エフェソ5:18)。

 要するに、ここの書かれていることは、ある意味では、私たちの誰もが求め、期待すべきことなのです。今日の箇所を読みます時に、単に「何か特別なことが起こった」と考えて読むことは、この箇所の正しい読み方ではありません。むしろ、「何か特別なことがそこから始まったのだ。そして今日に至るまで継続しているのだ。それはキリストの再臨に至るまで続くのだ」ということを考えて読まなくてはなりません。続いているのですから、私たちもまた同じことを求めるのです。聖霊の満たしを求めるのです。

聖霊の満たしを求めましょう
 そこで残された時間、聖霊に満たされるとはいかなることかを、なおこの箇所から共に考えたいと思います。今後、私たちが聖霊に満たされること、満たされ続けることを求めるならば、あの日に起こった出来事の本質をしっかり捉えておくことはとても重要なことだからです。特に二つのことに心を留めましょう。

 第一に、それが「五旬祭の日」に起ったことに注目しましょう。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」(1節)と書かれているとおりです。五旬祭の一つの意味は「刈り入れの祭り」ですが、もう一つの意味は「律法授与の記念の祭り」です。出エジプトの後、荒れ野を導かれながら旅をして、シナイに着くわけですが、そこにおいて律法を与えられ、神と契約を結んだその出来事を記念しているのが、この過越祭から五十日後の「五旬祭」という祭りでした。

 しかし、聖書の伝えるところによりますと、この律法をイスラエルの民は守ることができませんでした。彼らは、律法に基づいた最初の契約を破ったのです。そこで神は預言者エレミヤを通して次のように語られたのでした。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:31‐33)。これが新しい契約の預言です。このように、新しい契約における律法は、先に石の板に書き記された言葉として与えられるのではありません。心の板に書き付けられるのです。それは人間の為しえることではなく神の御業です。神の霊によるのです。

 「五旬祭の日」に聖霊降臨が起こったことは、まさにあの最初の律法の授与と同じように、エレミヤの預言した出来事が実現したことを意味します。ですから、聖霊の満たしを求めるということは、第一には、私たち自身の心に、神が律法を書き記してくださることを求めることに他ならないのです。言い換えるならば、私たち自身が、神に従順な者になることを求めることです。この世界に、私たちの周りに、神の御心が実現することを願うなら、まず私たちの心にそれが実現することを求めねばなりません。この世界が変わり、私たちの周りが変わることを求めるならば、まず私たち自身が変えられ、神に従順なものへと変えられることを求めるべきです。聖霊の満たしを求めるべき第一の意味はそこにあるのです。

 第二に、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(4節)と書かれていることに注目しましょう。

 私たちがここで思い起こしますのは、旧約聖書に記されている有名なバベルの塔の出来事です。創世記11章1節以下に出てくるその物語の中で人々はこう言っています。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(創世記11:4)。そこで神は彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまわれました。至って単純な話です。その町は「バベル」と呼ばれました。バベルという言葉は、混乱(バラル)という言葉から来ていると創世記は説明しています。

 単なる昔話ではありません。神に背を向けて、自らの力で「天まで届く塔のある町を建てよう」と言っている人間の傲慢な姿は、歴史を通じて少しも変わっていないからです。そこで互いの言葉が通じなくなり、混乱が生じている現実も、そのまま現代に当てはまります。単に多くの国語があるという事ではありません。同じ国語を語りながらも言葉が通じないということがいくらでも起こります。ある時には親と子の間で意志が通じません。言い換えるなら、言葉が通じないのです。夫婦の間で言葉が通じません。世代間で言葉が通じません。隣人同志でさえ言葉が通じません。人と人とが共に生きることができません。この世界はずたずたに引き裂かれた世界です。それは人間の傲慢さの結果に他なりません。

 しかし、ここで、あのバベルの塔の出来事とまったく逆のことが起こっています。彼らは突然、異なった言葉を話し始めます。しかし、彼らはバラバラではありません。神の霊によって一つとされているのです。異なる言葉を話しながら、もはやバベルではありません。神の霊が彼らを満たし、支配しているからです。罪の支配は人と人との関係を分断します。しかし、聖霊の支配は異なる者たちを結びつけて一つにするのです。

 聖霊降臨によって宣教の働きが始まりました。あの五旬節に起こったことは神による一つのデモンストレーションに他なりません。あの時、起こった出来事によって示されているように、やがて神の言葉は、異なる言葉の異なる人々の中に宣べ伝えられていくのです。そして、神の霊によって、それまで対立していたユダヤ人とサマリア人が一つにされるのです。さらにユダヤ人と異邦人が一つにされるのです。それは聖霊によって実現するのです。

 このように聖霊の満たしを求めるということは、一つになることを求めることでもあるのです。単に個人的な霊的な体験を求めることではありません。これを間違えると、聖霊については語られていながら、みんながバラバラ、さらには互いにいがみ合っている、などということが起こります。

 「満たされていますか?」今日の説教題です。単に心が満たされているかどうかの話ではありません。聖霊に満たされているかどうかということです。もしそうでないなら、共に祈り求めましょう。この世界の悲惨について語る前に、私たちの身近な人々の罪を語る前に、まず、自分が神に従順になれるように祈り、さらに他者のために祈り、皆が一つとなることを求めて祈り、聖霊に満たされることを共に祈り求めましょう。

以前の記事