2026年9月30日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 23:1~39

 サムエル記下 23:1-39

 23章の前半には、ダビデの最後の言葉が記されています。この部分は「イスラエルの麗しい歌」とありますように、ダビデの歌として物語とは別に伝えられてきたものなのでしょう。

 このように最後の言葉が厳かに記されている例としては、例えばヤコブ(創世記49章)やモーセ(申命記33章)などにも見られます。イスラエルにおいては、このように《言葉を残す》ということが重要なこととして考えられていたようです。人がその死において、後に残る者に対していったい何を語るかということは、決して小さなことではないのです。

 そこには、ある意味で、その人がどう生きてきたのかという、その道筋のすべてが現れてしまうとも言えるでしょう。人はその人が生きてきたこと以上のことは語れない。聖書に登場する人物の最期を見ます時、私たちならばいったい後に残る者に対していったい何を語るであろうかということを思わせられます。

 ダビデは主の油注がれた者として、「王の統治」について語りました。「主の霊はわたしのうちに語り、主の言葉はわたしの舌の上にある。イスラエルの神は語り、イスラエルの岩はわたしに告げられる。神に従って人を治める者、神を畏れて治める者は、太陽の輝き出る朝の光、雲もない朝の光、雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光」(2‐4節)。そのようにダビデ王家の者ならびに後のイスラエルの民が聞くべき言葉として、ダビデは「王の統治」について語り聞かせたのです。

 王は「神に従って人を治める者」でなくてはならず、「神を畏れて治める者」でなくてはならないのです。そのような者であってこそ、「太陽の輝き出る朝の光」となり得るのだ。――そのようにダビデは語ります。

 そのような者はまた、「雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光」として表現されています。ここには、雨季の後のパレスチナの情景がその背景にあります。雨季の後、陽の光を浴びて大地は新緑で覆われます。そこでは光と命が結びついています。新約聖書のヨハネによる福音書にもしばしば光は命と結びつけられていますが、それは人々の実感だったのでしょう。王権は力です。そのような力を与えられた者は、その力を何のために用いるべきなのか。――彼は人々を生かすそのような光にならねばならない、というのがここに描かれている王権の理解です。

 ここまで見てきましたように、初代の王はサウルでした。しかし、サウルの時代はある意味では過渡期なのです。本当の意味で中央集権的な王国の支配体制が確立したのはダビデの治世においてでした。

 王国となる以前に人々を治めていたのは「士師」でした。「士師」は、明らかに神によって力を与えられ立てられた人々でした。その力が神に由来することは人々の共通理解だったのです。

 しかし、王国となった時に、その権力は世俗的な力となりました。王に信仰があるかないかに関係なく、王は力を持ち得るのです。それが王制というものです。しかし、だからこそ、王はその力をどのように用いるかが問われるのです。だからこそ、王は神を畏れねばならない。そうダビデは最後に言い残しているのです。

 さらにダビデは言います。「神と共にあってわたしの家は確かに立つ。神は永遠の契約をわたしに賜る、すべてに整い、守られるべき契約を。わたしの救い、わたしの喜びを、すべて神は芽生えさせてくださる」(5節)。この「神と共にあってわたしの家は確かに立つ」という部分は、実は翻訳の難しいところなのです。「わたしの家は、このように神と共にはないが」という訳も可能だからです。そうすると正反対になりますでしょう。実は、そのほうが直訳に近いのです。

 実際、ダビデ王家は問題に満ちていたことは、既に読んできたとおりです。そして、その後のダビデ王朝もまた然りです。ですから、「神と共にはないが」というほうが実状にあっていると言えます。あるいはこの通りの訳であるとしても、現実はそうではないという痛みを伴っていることは事実でしょう。実際、ダビデ自身大きな罪を犯し、その後、ダビデ家に、さらにはイスラエル全体に大きな苦しみがもたらされてきたことは、既に見てきたとおりです。

 しかし、いずれにせよこの歌において大事なことは、ダビデは、「わたしの家」そのものではなく、神の契約に目を向けているということです。既にサムエル下7章のナタン預言において語られていた、神が与えてくださった「永遠の契約」です。そこに現された神の憐れみにこそ、「わたしの家」の未来はあるのです。

 さて、このダビデの歌が残されたことが何を意味するかを考えねばなりません。サムエル記にこの歌が入れられた時には、既にダビデ王朝そのものは存在してはおりません。ダビデの王国は亡びてしまったからです。王家は捕囚となったのです。

 この歌は第一に、なぜそのようになってしまったかを示すものとして読まれたことでしょう。すなわち、ダビデの末裔たちは「神に従って人を治める者、神を畏れて治める者」ではなかった。そして、民に命をもたらす王ではなかった。その事実が歴史の中において明らかにされたということです。「悪人は茨のようにすべて刈り取られる」(6節)と書かれていることが現実となったのです。つまりダビデの王国が滅びたのは世俗的政治的意味における国家的災難ではなかったということです。これは神との関わりの問題なのです。

 しかし、この歌が記されている理由はそれだけではありません。これは希望の歌でもあるのです。なぜなら、契約そのものは「永遠の契約」に他ならないからです。それは未来に目を向けさせます。確かにダビデの家は神と共になかった。それゆえに滅びたように見える。しかし、神はどんな絶望の中にあってもそこに救いと喜びを芽生えさせてくださるのです。

 具体的には滅びたダビデ王家から、ダビデの子孫であるメシア、命をもたらす王が来られるのです。ですから、だから「わたしの救い、わたしの喜びを、すべて神は芽生えさせてくださる」という言葉は、後の人々の言葉でもあるのです。そこにおいて重要なのは、すべての希望の根拠は、永遠の契約にあるという一事です。

 このメシア待望こそ、イエス・キリストの到来の背景に他なりません。そして、命をもたらす王は、既に隠れた姿で来られたのだ、と私たちは伝えられているのです。また、やがて明らかな姿で再び来られるのだ、と伝えられているのです。

 23章後半には、ダビデの勇士たちの武勇伝が記されております。これは21章15‐21に続いています。

 ここに描かれているいくつかのエピソードにおいてまず特徴的であるのは、家来たちのダビデに対する忠誠です。ペリシテ人との戦いにおいて危機を経験したダビデに対して、家来たちは「以後、我々と共に戦いに出てはなりません。イスラエルの灯を消さぬよう心掛けてください」(21:17)と誓わせます。

 また、ダビデが「ベツレヘムの城門の傍らにある、あの井戸の水を飲ませてくれる者があればよいのに」と切望した時、三人の勇士が自らの命をかえりみず、ベツレヘムまで行き、水をくんでダビデのもとに持ち帰ります。これらのエピソードは、ひとつひとつ極端ではありますが、彼らがいかにダビデに忠実であったかを示しています。そのような多くの忠実な人々がいてこそ、王国は存在し得たのです。そのことを聖書は忘れてはおりません。

 しかし、そのような忠実な人々のリストの一番最後に、あえて聖書は「ヘト人ウリヤ」(39節)の名前を置くのです。そのような家来たちの忠実さの物語によってダビデの不真実が際だたせられる。サムエル記の終わりに当たって聖書はやはりそこに光を当てるのです。そのことを聖書は決して覆い隠さないし、なかったことにはしない。人間の救いは罪が人間によって忘れ去られることによってではなく、あくまでも神の赦しと「永遠の契約」にこそあるのです。それゆえに私たちもまた、「わたしの救い、わたしの喜びをすべて神は芽生えさせてくださる」と語ることができるのです。私たちは「永遠の契約」がどのような形で地上に現されたかを知らされているからです。


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