2025年6月1日日曜日

「天に上げられたキリストと 地上に生きるわたしたち」 

2025年6月1日 主日礼拝説教 

聖書:ルカによる福音書 24:44‐53

天に上げられたキリスト
 去る21日の木曜日は教会の暦では「昇天日」と呼ばれまして、キリストの昇天を記念する日でした。キリストの昇天については、今日の福音書朗読でも次のように語られています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(50‐51節)。キリストの体がまるで風船のようにフワフワと空に上っていった様子を思い描きますと何かとても不思議な感じがいたします。

 しかし、今日の聖書箇所において、本当に不思議なことは別にあるのです。弟子たちがキリストの昇天を悲しんでいないということです。そこには確かに「彼らを離れ」と書かれています。天に上げられるとはそういうことです。しかし、弟子たちは十字架の死においてキリストを失ったあの時のように、悲しみにくれるようなことはなかったのです。それどころか、こう書かれています。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52‐53節)。

 彼らは喜んでいました。大喜びでした。喜んだだけではありません。キリストの昇天は、彼らを神殿へと向かわせました。礼拝へと向かわせました。神へと向かわせました。彼らは神を礼拝し、神を誉めたたえていたのです。

 ここから一つのことが明らかになります。キリストが天に上げられるということは、弟子たちにとって、決してキリストが《遠くへ行ってしまう》という出来事ではなかった、ということです。そうではなくて、むしろ逆に、キリストが上げられることによって、《天そのものが近くなる》という出来事だったのです。天が近くなり、神御自身が近くなり、神の救いが近くなる。だから喜ばずにはいられない。だから天に向かわずにはいられない。神を礼拝せずにはいられない。神を誉めたたえずにはいられない。だから「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」のです。

 しかし、彼らは天がどれほど近くなったかということを、本当の意味ではまだ知らないとも言えるのです。それを知るのは、聖霊が彼らに降った後に、自分たちが「教会」であることを意識するようになってからです。本日の第2朗読では、エフェソの信徒への手紙が読まれました。この手紙において、パウロは教会をくりかえし「キリストの体」と呼んでいます。天に上げられたキリストの「体」です。そして、こう言うのです。「わたしたちはキリストの体の一部なのです」。

 そして、何よりも喜ばしいのは、そのように天におられるキリスト、教会の頭であるキリストは、私たちの罪を贖うために十字架におかかりくださったキリストであるということです。私たちを愛し、私たちのために御自身を献げてくださったキリストであるということです。だからこそ、私たちは罪を赦された者として、キリストの体の一部でいられるのです。

 そのような仕方で、私たちは天に上げられたキリストに結ばれているのです。だから、今日の第2朗読において、パウロはこう言っているのです。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます」(エフェソ4:1)。彼は投獄されているのです。鎖につながれているのです。しかし、彼がどこにいようと、何につながれていようと、彼はキリストの体の一部なのです。天に上げられたキリストに結ばれているのです。すなわち、そのような仕方で天につながっているのです。これ以上近くにはあり得ないという仕方で、天につながっているのです。

 私たちがこの地上にある限り、私たちを取り巻く環境は変化していきます。パウロのように投獄されることはないかもしれませんが、様々な形で束縛を経験し、自由を奪われるという経験はするのかもしれません。しかし、私たちがどのような状態に置かれようとも、私たちは天につながっているのです。私たちは天に上げられたキリストの内にあり、キリストの体の一部だからです。

 だから、あの弟子たちがそうであったように、どのような状態にあっても、喜びをもって天に顔を上げ、喜びをもって神を礼拝することができるのです。天に上げられたキリストに結ばれているならば、私たちは本質的には既に天に属しているのであり、わたしたちは既に救われているからです。(ぜひ、今日、家に帰られたら、エフェソの信徒への手紙1章前半を読んでみてください。)

地上に生きる私たち
 さて、私たちは天に上げられたキリストに結ばれて、既に天に属する者だと申しました。しかし、話はそれで終わりません。キリストは天に上げられる前に、地上のことについて語られたのです。そして、地上における弟子たちの務めについて語られたのです。

 45節以下を御覧ください。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」(45‐48節)。

 確かにメシアは苦しみを受けられました。そして、復活されました。そのようにして世の罪の贖いを成し遂げられました。しかし、キリストが成し遂げてくださった罪の贖いの恵みは、人々に届けられ、手渡されなくてはなりません。つまり、宣べ伝えられなくてはならないのです。ですから、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と書かれているのです。誰が宣べ伝えるのですか。もちろん、弟子たちです。すなわち教会です。私たちです。

 「罪の赦しを得させる悔い改め」と書かれていました。「悔い改め」というのは、方向転換をして神に立ち帰ることです。神に立ち帰るならば、神はすべての罪を赦して受け入れてくださる。それが「罪の赦しを得させる悔い改め」です。その意味するところは、ルカによる福音書だけに書かれている有名な例え話に明らかにされています。「放蕩息子のたとえ」と呼ばれているものです。父親のもとを離れ、財産を放蕩の生活によって食いつぶし、飢饉の中で飢え死にしそうになった息子が、はたと我に返ります。自分は本来いるべきところにいない。問題は父のもとにいないことだ。そのことに気付くのです。そして、方向転換をして父のもとに帰って行くのです。そして、父の家に近づいた時に彼が目にしたのは、髪を振り乱して走り寄る父の姿でありました。すべてを赦し、迎えてくれる父の姿だったのです。父は既に息子を赦していました。罪の赦しは既に父のもとにありました。彼は父のもとに帰って、その赦しを受け取ったのです。

 このことが宣べ伝えられなくてはなりません。既に贖いの小羊は屠られました。罪の贖いは成し遂げられました。父のもとには赦しがあります。立ち帰るならば、父は赦しをもって迎え入れてくださいます。父のもとには赦しがあるのに、救いがあるのに、どうして父に背を向けたまま滅びてよいでしょうか。あらゆる国のあらゆる人々に、父のもとには赦しがあり救いがあることを宣べ伝えなくてはなりません。「罪の赦しを得させる悔い改め」が宣べ伝えられなくてはなりません。教会は、私たちは、その恵みの言葉を託されているのです。

 キリストは天に上げられました。私たちは確かに天に上げられたキリストの体です。しかし、私たちは天にのみ向いていてはなりません。地上に目を向けなくてはなりません。地上にいる間に、地上にいる人に、伝えるべきことを伝えなくてはなりません。地上にある間に、地上においてしかできないことを、しっかりとしておかなくてはならないのです。

 しかし、もう一方において、それが決して容易なことではないことは明らかでしょう。そもそも、教会が託された範囲は、「あらゆる国の人々」なのですから。身近な人に神の恵みを伝えることにさえ数多くの困難があるのです。ましてや「あらゆる国の人々」となったら、どれほど多くの隔ての壁を乗り越えなくてはならないことででしょう。

 それゆえに主は言われたのです。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節)。「高い所」というのは、キリストが上げられた天です。そのように、イエス様が天に上げられた後に、今度はその天からの力に弟子たちが覆われるのだというのです。天に上げられたキリストが聖霊を地上に注いでくださる。弟子たちは聖霊に満たされ、天からの力に覆われるのです。それが父の約束だと主は言われたのです。

 「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。それは私たちに与えられた務めです。しかし、私たちは天に上げられたキリストの体として、天に属する者として、それを行うのです。そこで信ずべきことは、私たちに務めを与えてくださった御方は、また必要な力をも与えてくださるということなのでしょう。実際、私たちは「ルカによる福音書」に続く第2巻、「使徒言行録」において、神の力が生き生きと働かれた初期の教会の様子を見ることができるのです。そして、その同じ約束は私たちにも与えられているのです。

 私たちが天にしか関心がないならば、天からの力は必要としないでしょう。しかし、私たちが神の望んでおられるように、地上にいる人、私たちの家族、友人、地域の人々、この世の人々に関心を向けるなら、そして与えられている務めを果たそうとするならば、私たちが天につながっていることを意識し、天からの力を求めることは絶対に必要です。神の力に覆っていただかなくてはなりません。次週は聖霊降臨祭です。キリストの昇天後、弟子たちがひたすら聖霊に満たされることを求めて待ち望んだように、私たちもまた聖霊に満たされることを祈り求め、上よりの力に覆っていただくことを求めましょう。

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