2025年3月2日日曜日

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」 

2025年3月2日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 14:22‐33

 今日はマタイによる福音書14章22節からお読みしました。この直前には、五つのパンと二匹の魚を五千人以上の人々に分け与えたという奇跡物語が記されています。そこにはパンを裂いて弟子たちにお渡しになるイエス様、そのパンを運ぶ弟子たち、パンを受け取る人々の姿が描かれています。

 弟子たちは、イエス様から受けたものを人々のもとに運び、彼らと分かち合ったのです。そこには大きな喜びがありました。これは教会の一つの姿です。イエス様は十字架にかかられて、パンのみならず、御自分のすべてを私たちに与えてくださいました。私たちは、その十字架において与えられた恵みを共に分かち合って喜びます。そのようにして、教会は御国の祝宴の前味を味わうのです。これが教会の一つの姿です。

 しかし、これがすべてではありません。この世に存在する教会には、もう一つの姿があります。そのことを今日の聖書箇所ははっきりと示しています。弟子たちは共に食事をする喜びの中に留まることを許されませんでした。弟子たちはイエス様の指示に従って、向こう岸へと向かう一つの舟の中にいます。そして、その舟は嵐に遭うのです。彼らは逆風に悩まされて苦しむことになります。これが教会のもう一つの姿です。

わたしだ。恐れるな

 弟子たちを強いて舟に乗せたのはイエス様でした。彼らは、主の言葉に従って漕ぎ出したのです。しかし、主の言葉に従った彼らを待ち受けていたのは、嵐でした。風と波に翻弄されて、思うように前に進むことができません。しかも、悪いことに、頼りのイエス様は、目に見える姿において、その舟の中におられないのです。

 イエス様の不在。それゆえの不安と恐れ。あの舟の上にいた弟子たちの経験は、その後の時代における、教会の経験でもありました。キリストは十字架にかかられた後、復活して弟子たちに現れましたが、復活のキリストの現れは、その後ずっと続いたわけではありません。聖書は、その期間が四十日であったと伝えています。そして、その期間の終わりを、「キリストの昇天」として書き記しているのです。

 その後二千年にわたる長い教会の歴史において、キリストは目に見える姿で教会と共におられたわけではありません。教会が迫害の嵐の中にあった時、キリストは目に見える姿では、教会におられませんでした。教会が異端の教えによって内部からかき乱されている時、キリストは目に見える姿において、共にいることはありませんでした。多くの人が幾たび思ったことでしょう。ああ、イエス様が見える姿で共にいてくださったら良いのに、と。

 しかし、物語は次のように続くのです。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」(25‐27節)。

 「湖の上を歩いて」という表現は実に印象的です。「そんなことあり得ない」と誰もが思いますでしょう。そうです、その通りです。ここで第一に重要なことは、まさに「そんなことあり得ない」という仕方でキリストが近づいて来られた、ということなのです。つまり、キリストが教会に近づいて来られ、キリスト者と共にいてくださり、語りかけてくださるのは、まさに人間の思いを越えた現実であり、聖霊による奇跡なのだ、ということです。そして、それこそが、主日礼拝において、また日々の生活において、代々の教会が経験してきたことなのです。キリスト者が経験してきたことなのです。もちろん、ここにいる私たちに与えられている恵みでもあるのです。イエス様は私たちの思いを超えた仕方で近づいて来られ、共にいてくださいます。

 そして、もう一つ重要なことがあります。キリストが特に「湖の上を」歩いて来られた、ということです。「湖」と訳されていますが、これは「海」という言葉です。そして、「海」というのは、古代の人々にとって、人間の手に負えない悪魔的な力を象徴していたのです。まさに、舟はそのような力によって翻弄され、滅びに瀕しているのです。しかし、キリストはその恐るべき悪魔的な力を踏みつけて近づいて来られたのです。

 そして、そのようなキリストであるからこそ、彼らにこう語られたのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)と。これは単に、「幽霊ではないよ、わたしだよ。怖がらなくていいよ」という意味ではありません。「わたしだ」という言葉は、「わたしはある」とも訳せる言葉です。

 「わたしはある」という言葉で思い起こしますのは、かつてモーセに神が現れた時に語られた言葉でしょう。それは旧約聖書に記されている神の名前なのです。出エジプト記に次のように記されています。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」(出エジプト3:14)。

 この「わたしはある。わたしはある者だ」という神の御名を、ある旧約学者は「わたしがいるのだ。確かにいるのだ」と訳していました。ここでも、荒れ狂う海をその足の下に踏みつけて来られたキリストが、その言葉をもって弟子たちに向かって語られるのです。「安心しなさい。わたしがいるのだ。確かにいるのだ。恐れることはない」と。そして、同じ言葉を、代々の教会もまた聞き続けてきたのです。

主よ、お救いください
 そして、物語はさらに、舟の中にいた一人の人物にスポットライトを当てます。ペトロです。そこに見るのは、教会という舟の中にいる一人の人間である私やあなたの姿です。

 この場面では、イエス様だけでなく、ペトロもまた水の上を歩いています。彼もまた、イエス様と共に嵐の海を足の下に踏みつけて歩くのです。彼はもはや悪魔的な力に支配されてはいません。イエス様と共に支配する者として立っているのです。それは彼の勇敢さによるのではありません。ここで特にペトロがイエス様の「御言葉」を求めていることは重要です。イエス様の「来なさい」という御言葉によって、彼は歩き出すのです。力を持っているのはペトロ自身ではありません。主の御言葉なのです。

 しかし、この物語が強調しているのは、ペトロが水の上を歩くことができた、ということではなさそうです。物語は次のように続くのです。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」(30‐33節)。

 このように、どちらかと言えば、強調点はペトロが水の上を歩いたことよりも、むしろペトロが沈んだところにありそうです。ペトロは強い風に気づきました。恐怖が彼を襲います。その時、彼は水に沈み始めたのでした。水の上を歩いたペトロの姿を読んだ時には、聖書が身近に感じられなかった人でありましても、ペトロが沈んだところにおいては、一気に聖書が身近になったことでしょう。

 さて、その私たちに身近なペトロは、いったいどうしたでしょう。彼は叫んだのです。「主よ、助けてください」と。そして、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ…」と記されているのです。ペトロがイエス様の腕にしがみついたのではありません。イエス様がペトロを捕まえたのです。海に沈ませまいとして、しっかりと捕まえてくださったのです。人は沈みます。しかし、イエス様は沈みません。そして、決定的に重要なことは、ここでペトロが沈みはじめたということではなくて、沈まないイエス様がしっかりと捕まえていてくださる、ということなのです。

 そして、他ならぬこの「捕まえていてくださるイエス様」が、こう言われたのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。ブクブクと水に沈み行くペトロを見つめながら、「お前は信仰が薄いから、沈んでいくのだ。さらば、ペトロよ」と言ったのではないのです。

 「なぜ疑ったのか」――、主は「疑い」という言葉を使われました。これは元々心が二つの方向に分裂することを意味する言葉です。ペトロの心は、あの時、あの瞬間、確かに二つに分裂していました。一方において心はイエス様とその御言葉に向き、もう一方において、心は強い風と波立つ海に向いていました。確かにイエス様の言われるとおりです。

 しかし、ペトロが沈みはじめた時にはどうだったでしょう。「主よ、助けてください」と叫んだ時はどうだったでしょう。波風などにかまってなどいられません。一心にイエス様に向かって手を伸ばして叫んだに違いないのです。そこでは二つに分裂していた心が、再び一つになっていたはずです。そうです、それでよいのです。

 「主よ、助けてください。」――これは文字通りに訳せば、「主よ、お救いください」という言葉です。これは昔から教会が、共にささげる礼拝において、幾度となく繰り返してきた祈りの言葉です。この場面の描写には、明らかにその後の時代の信仰生活が重ね合わされています。ですから、「『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」という言葉が出てくるのです。これはイエスを神の子と言い表す信仰の告白です。

 ですから、私たちにとっても、本当に大事なことは、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉をもって、自らを責めることではないのです。「私は信仰が足りないのだ。疑ってしまうからだめなのだ」と、自らを叱咤激励することではないのです。そうではなくて、代々の信仰者がしてきたように、そのままでは沈んでしまう自分であることを認めて、「主よ、お救いください」と祈ることなのです。ひたすら祈ることなのです。

 決定的な意味を持っているのは、私たちが疑いのない揺るぎない信仰を持っているか否かではありません。そうではなくて、海を足の下に踏みつけて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださる御方がおられる、ということなのです。そして、決して沈まない方が、「すぐに手を伸ばして捕まえ」てくださることなのです。それでよいのです。私たちが沈むことはあっても、主が沈むことはないからです。

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