ヨハネによる福音書 5:1‐18
良くなりたいか
38年間も病気で苦しんできた人がイエス様によって癒された。今日お読みしたのはそのような話です。しかし、病気を癒すイエス様ということを伝えたいのなら、もっと大勢の人が癒された話を書き記した方がよいでしょう。ここに書き記されているのは、明らかに大勢の病人がいる場所で、ただひとりの人が癒されたという話です。そのような話が聖書に記されているのは、単に病気の癒しを伝えたいからではなく、その出来事が私たち全ての人間に関わる普遍的な意味を持っているからに違いありません。ここに書かれている出来事は、病気の人にとって身近な話であるだけでなく、元気な人にとっても身近な話であるはずなのです。
ところで、今日読まれましたように、話は癒しの出来事で終わってはいません。この癒された人は、その後、神殿に行くのです。神を礼拝しに行くのです。そこでもう一度イエス様にお会いすることになります。いや、正確には「イエスは出会った」と書いてあります。イエス様の方から出会ってくださって、彼にこう言われるのです。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」(14節)。つまり、ここでこの出来事は、単純に病気の癒しの話ではなくなるのです。ここに罪の話が入ってくるのです。
もちろん、このような言葉には注意が必要です。私たちは、あらゆる病気が常に罪の結果であるかのように、単純に結びつけることは慎まなくてはなりません。例えば、この福音書の9章には、弟子たちが生まれつき目の見えない人について、イエス様に「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねたという話があります。そのとき、主は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)と答えられました。単純に病気と罪とを結びつけてはならないのです。
しかし、もう一方で、人間の病や苦しみが罪とは全く無関係であると論じることも、現実的ではありません。というのも、私たちは事実、罪の結果として病気に限らず多くの苦しみを経験するからです。しかも、長い間苦しみ続けることがあるからです。いや、さらに言えば、罪によって病気になるというよりも、罪そのものが人間にとって深刻な病に他ならないとも言えるのです。そこではもはや、肉体的に病気か否かは関係がなくなります。
例えば、10節以下には病気の人だけでなく、元気な人も出てきます。元気な「ユダヤ人たち」です。そんな彼らが、病気が癒されて元気に床を担いで歩いている人を目にしたという話が書かれているのです。見るからに、つい先ほどまで病気で寝ていたような身なりの人が、今では元気になって床を担いで歩いている。その姿を見かけたユダヤ人たちの第一声はこうでした。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」(10節)。
どう思いますか。病気の人が癒されたことを一緒に喜ぶのではなく、律法違反であることをまず咎める。そして、癒したのがイエスであると知ると、イエスを迫害し始めたと書いてあります。さらには18節に「ますますイエスを殺そうとねらうようになった」と書かれている。憎しみが殺意にまでふくれあがっている。そんな元気で正しい人たちです。
いったい本当に病人なのはどっちなのでしょう。改めて考えざるを得ない。しかし、これが人間の現実なのです。人間の根源的な罪の病の症状は、体が病んでいる時よりも、むしろ元気な時において顕著に現れるのです。しかも、皮肉にも、人間の正しさの中において、様々な形で顕著に現れてくるとも言えるのです。
このように肉体的に病んでいようが元気であろうが、この話は私たちすべての者にかかわっているのです。この38年間病気であった人の姿は私たちの姿です。そこにイエス様が来られるのです。そして言われるのです。「良くなりたいか」と。それは根源的な罪の病が普遍的であるように、この問いもまた、全ての人間に対する普遍的な問いでもあるとも言えます。「良くなりたいか」と主は、ここにいる私たちにも問いかけておられるのです。
起き上がり、歩きなさい
イエス様がそのように問われた場面をもう一度見てみましょう。その人は、エルサレムの羊の門の傍らにあったベトザタと呼ばれる池の回廊に横たわっていました。そこには他にも、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていたと書かれています。なぜ、彼らはそんなところにいたのでしょうか。理由が書いてありません。しかし、よく見ると新共同訳では4節が抜けていますでしょう。その節はヨハネによる福音書の一番最後に付記されています。このように書かれています。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」(3節後半‐4節)。
これはヨハネによる福音書に後の時代につけ加えられた説明書きです。いわば当時の迷信です。この迷信のゆえに、皆自分が一番最初に飛び込もうと、池の回廊に待機していたのです。38年もの間病気に苦しんできたその人もまた、どれくらいの長きに渡ってかは分かりませんが、来る日も来る日も癒しを求めてそこにいたのです。
そこにイエス様が来られました。物語は次のように続きます。「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」(6節)。
イエス様は「良くなりたいか」と問われます。さて、この人は「良くなりたい」のでしょうか。この人は「良くなりたい」とは答えていません。しかし、彼の行動そのものがはっきりと答えています。良くなりたいのです。彼は今日もなおベトザタの池のほとりにいるのです。あきらめてはいないのです。
しかし、「良くなりたい」という願いを持っていたとしても、ベトザタの池は彼にとって全く救いにならなかったのです。そのことを聖書は伝えているのです。この池には「五つの回廊」があったと記されております。回廊が五つあったことを殊更に記しているのは、それがモーセの五書、モーセの律法を象徴しているからであると、古くから理解されてきました。先にも触れましたように、この後には安息日律法の話が続くことからも、それは正しい解釈であろうと思います。
律法を象徴する五つの回廊を持つベトザタの池は、38年間苦しんできたその人の助けにはなりませんでした。これは律法の無力さを象徴的に表していると言えるでしょう。律法というものは、確かにそれ自体としては、何が正しいことかを教える良いものです。しかし、正しいことを教えて命じる律法は、人間を蝕む罪という病を癒すことはできないのです。人は正しいことを学んで正しいことを身に着ければ「良くなる」と思うかも知れません。しかし、現実にはそうならない。ある人はこう表現しています。それは「病気で寝たきりで、点滴で栄養補給を続け、かろうじて生きている人に、『バランスのよい食生活をしてスポーツで体を鍛えなさい、そうすれば健康になれます』と勧める」ようなものだ、と。それはいっそう惨めな思いを強いるだけなのです。
私たちに本当に必要なのは何なのか。それは「良くなりたいか」と本気で問いかけてくださる御方なのです。しかも、ただそう言われるだけではありません。なんと書かれていますか。「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」(6節)。イエス様は見ておられたのです。病の中に横たわっている現実を。自分が自分で思い通りにならない、そのような現実を。そのように、罪に蝕まれた人間の現実をイエス様は見ておられるのです。いや、見ておられるだけではありません。「知って」と書かれています。長い間病気であるのを知っておられるのです。自分の力で、あるいは誰かの助けを得て「良くなりたい」と思って、そして現実には繰り返し失敗してきたことも、全部知っておられるのです。その悲しみをすべて知った上で、なおその上で、「良くなりたいか」と言ってくださる。イエス様とはそのような御方です。
そのようなイエス様が言われるのです。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)。全部知っておられる主は、「仕方ありませんね。寝ていなさい」とは言われない。「良くなりたいか」と問われる主は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われるのです。私たちが「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」というようなことを言って、他の人間のことを問題にしている時に、主は誰か他の人のことではなく、私たち自身に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われるのです。
厳しい言葉でしょうか。確かにそうとも言えます。しかし、イエス様の「起き上がりなさい」は単なる要求ではないのです。そうではなくて、起き上がらせる力なのです。今まで自分を横たえていた床から起き上がって歩き出させる力なのです。この物語に見るように、です。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」。私たちに必要なのはこの御方の御言葉です。私たちを知った上で「良くなりたいか」と問われる御方が語られる御言葉、私たちを本当の意味で癒し、起き上がらせ、歩き出させる力ある御言葉なのです。
信仰生活とは、そのような主の御言葉を聴きながら生きる生活です。それは、主の御言葉によって起き上がらされるプロセスであるとも言えます。私たちは既に新しく歩き始めているのです。完全な癒しは将来のことであるかもしれないけれど、この人に起こったことは既に私たちにも始まっているのです。この同じ言葉は復活を表現するために用いられています。ここに見る人の姿は、やがて私たちの復活において神の国において完成する私たちの癒しをも表しているのです。
2024年2月4日日曜日
「起き上がり、歩きなさい」
登録:
投稿 (Atom)