2023年12月3日日曜日

「神の慈しみと厳しさを考えなさい」

 ローマの信徒への手紙 11:13‐24

 今日は13節から読みましたが、先に17節以下を見ておきます。次のように書かれていました。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています」(17‐20節前半)。

神の慈しみにとどまる
 折り取られた枝とは福音を拒否したユダヤ人たちです。接ぎ木された野生のオリーブとは異邦人キリスト者です。もともと救いの約束を与えられていたのはユダヤ人たちでした。メシアの希望を与えられていたのもユダヤ人たちでした。にもかかわらず、彼らはメシアを拒否し、神によって備えられていた恵みを退けたのです。その一方で、旧約聖書に約束されていた希望とはまったく無縁であり、メシアを待ち望んでいたわけでもない異邦人が、救いの恵みに与るようになりました。「根から豊かな養分を受けるようになった」と書かれているとおりです。

 豊かな養分を受けている枝として生きていることは何も悪いことではありません。しかし、その枝がオリーブの木につながっていない枝に対して誇り始める時、誤りに陥ります。確かにユダヤ人は不信仰のために折り取られました。異邦人キリスト者は信仰によって立っています。そのことをパウロも認めます。しかし、そこで何を思わなくてはならないのか。パウロは言います。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(20節後半)。

 イスラエルは神によって選ばれた神の民でした。神が「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」(出エジプト4:22)とさえ、言われた民でした。しかし、旧約聖書を読みますと、神がいかにこの民に対して厳しく臨まれたかを知らされます。彼らが思い上がった時、へりくだって立ち帰るようにと神は呼びかけました。そして、立ち帰ろうとしない神の民に、いかに厳しい裁きの言葉が臨んだかを私たちは聖書を通して知っています。そして、最終的にメシアであるイエスのご人格とその死と復活を通して与えられた神の言葉を退けた時、神は彼らを救いの幹から折り取られたのでした。

 しかし、自然に生えた枝、本来幹につながっているはずの枝が救いの幹から折り取られたという事実を見て、「ああ、神は彼らをそのかたくなさのゆえに退けられたのだ」などと言っていてはならない、とパウロは言うのです。彼は次のように続けます。「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(21‐22節)。

 「あなたをも容赦されないでしょう」とは、「あなたも折り取られた枝になる」ということです。もう根から豊かな養分にあずかることができない枝になり、枯れ枝になるということです。それはあり得ることなのだ、と言っているのです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(22節)とパウロは言うのです。

 私たちは神の厳しさを考えねばなりません。しかし、それは私たちが神の裁きを恐れて戦々恐々として生きることを意味しません。パウロはあえて「《慈しみ》と厳しさ」と言っているのです。思い上がらず、むしろ恐れてどうすべきなのでしょう。神の慈しみにとどまるのです。「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」と語られているのです。

 ここで「神の慈しみにとどまる」と表現されていることは重要です。この後の23節には「不信仰にとどまらないならば」という言葉が出てきますから、ここは本来なら「信仰にとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」と書かれていても良いところなのです。しかし、パウロはあえて「信仰にとどまる」と言わず、「神の慈しみにとどまる」と言いました。私たち自身、ユダヤ人ではない異邦人キリスト者として、この言葉に耳を傾けなくてはなりません。

 聖書によるならば、私たちは野生のオリーブであったのです。そのような私たちが、今こうして接ぎ木されているのは、ただひとえに神の慈しみによるのです。神に背いて生きてきた私たちが、罪を赦されて、神に祈ることを許され、神と共に生きることができるのは、ただひとえに神の慈しみによるのです。神の慈しみなくしてはとうてい神の御前に立てないような私たちであることを思いつつ、その神の慈しみの中を生きていく。それが神の慈しみにとどまるということなのです。

 具体的には神の慈しみの現れであるキリストの体と血とにあずかり続けながら生きるということです。洗礼はただ神の慈しみによるのです。聖餐はただ神の慈しみによるのです。ですから洗礼の恵みから離れないことです。主の食卓から、聖餐の恵みから離れないことです。すべては神の慈しみによるのだということを弁えているならば、そこにはつまらない誇りが入り込む余地など微塵もないはずなのです。

 そして、自ら慈しみにとどまっているならば、不信仰によって折り取られた枝についても正しく見ることができるはずなのです。すなわち、折り取られて終わりではないということです。パウロは次のように続けます。「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」(23節)。

 神はおできになる。そこにパウロの希望がありました。パウロは、折り取られた枯れ枝を見ているのではありません。再び神によって接ぎ木され、根から豊かな養分を取って成長し、多くの実をつけている枝を見ているのです。神の厳しさと共に神の慈しみを知っているからです。

ねたみを起こすため
 さて、ここまで読みまして、13節に戻ります。そもそも、パウロが言いたかったことは何だったのでしょうか。「では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(13‐14節)。

 パウロは自分自身を「異邦人のための使徒」と呼びます。彼が福音を宣べ伝えることによって多くの異邦人がキリストを信じ、キリスト者となりました。この務めをパウロは確かに光栄に思うと言います。しかし、それにもかかわらず、パウロの働きは異邦人がキリスト者となることによって完結してはいないのです。その先があるのです。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。」

 それは単に同胞意識からくる同情のようなものではありません。パウロがあくまでも思い描いているのは、終わりの日を目指して進んでいる神の計画なのです。15節にこう書いているとおりです。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう」(15節)。

 ユダヤ人は不信仰のゆえに折り取られた枝となっています。しかし、神の計画は人間の不信仰によって頓挫することはありません。神は不信仰をも、人間のかたくなさをも、御計画の前進のために用いることがおできになる方です。直接的にはユダヤ人の不信仰によって主イエスは十字架にかけられましたが、その十字架によって神と人との和解が与えられました。さらに、ユダヤ人が不信仰によって折り取られましたが、そのことにより野生の枝である異邦人が接ぎ木され、福音はユダヤ人の枠を越えて外へ飛び出しました。それは異邦人を含め、世界を神との和解へと導くものとなりました。それゆえに、異邦人である私たちもまたここにいるのです。

 そして、世界に向かって流れ出た救いの業は、神の御計画のもとに完成へと向かいます。異邦人の救いは最終的にイスラエルの救いにつながっているのです。イスラエルは捨てられて終わりではありません。彼ら――すなわち全イスラエル――が神によって受け容れられるとの時が来るのです。パウロはそれを「死者の中からの命」と呼ぶのです。まさに神のみの為し得ることだからです。

 パウロは、このことを異邦人キリスト者に語ります。なぜでしょうか。彼らが神の大きな救いの歴史の途上にあることを知ってほしいからです。自分たちの救いが「終点」ではないことを理解して欲しいからです。自分たちがキリスト者にされたのは、今は福音に背を向けているように見える人々の救いのためでもあることを忘れてはならないのです。

 そこでパウロの願いは同胞であるユダヤ人たちにねたみが起こることでした。「ねたみ」――これは感情的に動かされることです。この場合、例えば「うらやましくなること」と言い換えることもできるでしょう。パウロは、異邦人キリスト者が、本来イスラエルに約束されていた恵みに与るのを見て、ユダヤ人たちがうらやましく思うように、ねたましく思うように、と願っているのです。

 そして、そのような「心の動き」を神が救いのために用いられるとするならば、やはり問われるのはその人が生きている姿であろうと思います。「ねたみ」が起こるのは、単に言葉によってではなく、目に見える生活や生き様によって起こるからです。自らを誇っている姿、他者を批判し断罪している姿によって、パウロがここで言う「ねたみ」が起こることは決してありません。求められているのは、慈しみにとどまっている人の姿です。ただ神の慈しみによって救われた者であることを知り、神に感謝し、神に信頼し、神の恵みを分かち合って生きている姿です。

 「不信仰なユダヤ人を神に見捨てられた者であるかのように断罪するのではなくて、むしろ神との平和を与えられたあなたがたの生活を通して彼らの内にねたみを起こしてほしい!」パウロの手紙を通して、そんな切なる主の御声が聞こえるような気がします。私たちの主は、そのような御方なのです。その主は、キリスト者が100人に一人もいないこの日本の社会の中で、信仰者として私たちがどのように生きることを望んでおられるのでしょうか。


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