ヘブライ人への手紙 13:1‐17
先週の聖書箇所は、「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」(12:28‐29)。という言葉で締めくくられていました。
私たちには新しい契約が与えられています。既に贖いの犠牲は屠られました。私たちのためには、永遠に生きておられ、常に生きておられる永遠の大祭司がおられます。私たちははばかることなく恵みの座に近づくことができます。そのようにして、私たちは確かな約束の中に生かされています。この世のすべては過ぎ去ります。揺らぐことのないものなど何もありません。ただ一つ、揺り動かされないのは御国です。私たちは既にその揺り動かされないものを与えられているのです。
だから「感謝しよう」と言うのです。信仰生活においてどんな困難があろうと、迫害があろうと、「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」とこの手紙の著者は励ましているのです。
それは具体的にどのようなことでしょう。神に喜ばれるように仕えていくにはどうしたらよいのでしょう。今日の箇所において、著者は次のように続けます。「兄弟としていつも愛し合いなさい」。先週お読みしたところには、「すべての人との平和を…追い求めなさい」(12:14)とありました。しかし、それはどこから始まるのでしょう。まずは共に信じる群れからです。すべての人との平和を追い求めるようにと命じられている教会の中において、まず求められなくてはならないのです。
それはある意味で当然のことです。私たちはイエス様御自身から、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と命じられているからです。父の訓練は必ずしも外からの迫害などを通して与えられるのではありません。むしろ身近な兄弟を愛することの困難の中にこそ、父の訓練が与えられているのです。
しかし、そこではまた「旅人をもてなすことを忘れてはなりません」と続けられています。日本語では分かりにくいのですが、「兄弟として愛する(フィラデルフィア)」という言葉と「旅人をもてなす(フィロクセニア)」という言葉が対になっているのです。
兄弟とはたえず顔を合わせているかもしれませんが、旅人とはもう二度と会わないかもしれません。親切にしたからといって、その見返りがあるとは限りません。自分や共同体に益をもたらす人であるから親切にするのではないのです。旅人をもてなすとはそういうことです。
しかし、そのようにして旅人をもてなしたアブラハムは、実は知らずに御使いたちをもてなしていたというのです(創世記18章)。その内のひとりが「主」と呼ばれているように、それはすなわち主をもてなしたということです。そのように、私たちは主によって愛された者ですから、その主をもてなしているかもしれないという思いをもって旅人をもてなすことが勧められているのでしょう。
旅人をもてなすこと自体は、ユダヤ人にとってはいにしえから重んじられていた徳目の一つでした。しかし、新約聖書に繰り返しこのことが語られているのは、迫害で散らされた人たちがいたからでしょう。またそのような困難の中で巡回しながら御言葉を伝えていた教師たちがいたのです。そのような初期の教会は、このフィロクセニアなくして成り立たなかったということも事実です。
そしてまた、ここでは立ち寄った旅人だけではなく、もしかしたら会ったことのない、牢に捕らわれている人や虐待されている人をも思いやるようにと語られています。自分も牢に捕らわれているつもりで、また虐待されたらどれほど苦しいだろうかといことを想像しながら、それらの人々を心に留めるべきだと語られているのです。イエス様は自ら人間の体を受け取って、その苦しみを経験してくださり、そのことをもって私たちを思いやってくださいます。そのようなキリストの体として、私たちも他の人に対してそうすべきなのでしょう。
続いて、性的な問題と金銭の問題においての清さが求められています。「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。」そのように語られています。
実際、生活の崩壊は往々にしてこの二つを巡って起こります。それは私たちが毎日のニュースに見るとおりですが、揺らぐことのない御国の約束と父なる神の訓練を忘れてしまうなら、これはキリスト者にとっても大きな誘惑となるであろうことをこの手紙の著者は知っているのです。ですから、先にも「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように」なってはならないと語られていたのです。
そのために重要なのは、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われた神の言葉です。これは申命記31:6からの引用です。性と金銭の誘惑は人間の孤独感、欠乏感、喪失感を足がかりに入り込みます。その足がかりを取り除くのは、先の主の御言葉を信じる信仰です。さらに、そこから積極的に兄弟を愛することのみならず、旅人をもてなすことも生まれてくるのです。
続く7節には「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」と書かれています。あえて「生涯の終わり」と書かれていることから、恐らくは迫害の中で殉教した人たちのことが考えられているものと思われます。
そうしますと、その直後に書かれている「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」という言葉は、たいへん重い意味を持ってまいります。彼らが信じて、そのために命をさえ惜しまなかったイエス・キリストと、今、あなたがたが信じているイエス・キリストは、同じ御方なのですよ、と言っているのです。その時のイエス様も今のイエス様も変わらない。そのことを私たちもまた思い起こさなくてはなりません。
この手紙の読者が主に「ヘブライ人」すなわち、ユダヤ人キリスト者であることを考えますと、その意味がさらに見えてまいります。キリスト教会がユダヤ教の一派であるかぎり、キリスト者がユダヤ人として律法を守り、また異邦人と交わることなく生活しているかぎり、ある意味では多くの困難を回避することはできたのです。さらに言えば、ローマにおいてユダヤ教は公認宗教でしたから、そこから外れていくということは、とりもなおさず国家の迫害の対象となることでもあったのです。ですから、ユダヤ教の枠の中に留まれという教えは、ユダヤ人キリスト者には都合の良い教えでもありますし、実際そのように教えているユダヤ主義者がいたのです。
しかし、そのような戒律遵守を勧める諸々の教えについて、「いろいろな異なった教えに迷わされてはなりません」と著者は語ります。そして、かつての動物犠牲の奉献がどのようになされていたかを思い出させます。罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるのです。それと同じように、イエスもまた門の外で苦難に遭われたのだ、と言うのです。それはエルサレムの外のゴルゴタで十字架にかけられたというだけではありません。人々から捨てられ、拒否され、辱められて十字架にかけられた。アウトサイダーとして十字架にかけられたのです。
そのように、イエス様が宿営の外におられるならば、どうして私たちが安全である宿営の中に留まっていてよいのか。そのようにこの手紙は訴えているのです。むしろ、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか、と。
この地上に私たちのゴールがあるのなら、この地上に安住の地を確保し、安全な宿営の中に留まることは重要でしょう。しかし、私たちのゴールはこの地上にあるのではありません。「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」(14節)と書かれているとおりです。そのように生きた指導者たち、その生涯の終わりをもって証しした指導者たちがいたのです。その信仰を見倣いなさいと著者は勧めます。私たちがその同じ信仰に生きるなら、わたしたちはどのように生きるべきなのでしょう。彼らのイエス・キリストは、変わらない御方として、私たちのイエス・キリストでもあるならば、わたしたちはどのように生きるべきなのでしょう。
2023年11月1日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 13:1~17
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