ルカによる福音書 22:39‐53
弟子たちとの最後の晩餐を終えたイエス様は、祈るためにオリーブ山に行かれました。この箇所を読みますと、少なくとも二つのことが強烈に心に迫ってまいります。一つは、主の苦しみの姿です。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)。そして、もう一つはその祈りの言葉です。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)。
メシアの苦しみ
まず、そこにはイエス様の苦しむ姿がありました。「苦しみもだえ」と書かれています。マルコによる福音書では「ひどく恐れてもだえ始め」とあります。イエス様の内にあったのは、第一には「恐れ」であったと思われます。そして、それはある意味でとても不思議なことだとも言えます。というのも、イエス様はここに至るまでに少なくとも三回、御自分の受難を予告しておられるからです。
例えば、18章31節以下にはこう書かれています。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」これは三度目の予告です。つまりイエス様はエルサレムで自分の身に何が起こるかを知っておられたのです。それを知りながら、あえてエルサレムに向かわれたのです。
この直前の食事についても、これが弟子たちと共にする最後の食事であることを主は明らかに知っておられました。ですから、その食事の際に、「これはわたしの体である」と言ってパンを与え、「これはわたしの血である」と言って杯を回されたのです。さらに言うならば、裏切ったユダが祈りの場所に人々を手引きして連れてくることさえも分かっていたのです。その場所こそが、騒ぎを起こさずにイエスを捕らえるためには格好の場所だったからです。そのことを重々承知の上で、あえて「いつもの場所」に向かったのです。わざわざ捕らえられるために、そこに行くようなものです。
ならば、そこに本来期待されるのは、捕らえに来る者を静かに待つキリストの姿なのでしょう。恐れることなく、うろたえることなく、ただその時を静かに待つキリストの姿。――しかし、そのような姿はここには見られません。キリストは恐れ、苦しみもだえて祈っておられるのです。ここに描かれているのは、期待はずれとも奇妙とも言える光景です。
しかし、私たちの期待を裏切るこの異常な姿こそ、キリストの受難が何であるのかを雄弁に物語っているとも言えます。これは単に死に対する恐れでも、肉体的な苦しみに対する恐れでもないことは明らかだからです。
死を恐れるということについて言うならば、本来、イエス様は死を恐れる必要はありませんでした。死を恐れる必要のない唯一の御方であったとさえ言えます。なぜならば、生をも死をも支配しておられる永遠の神を本当の意味で「父」として知っているわけですから。
しかも聖書には「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(1ペトロ2:22)と書かれているのです。それが三年もの間寝食を共にした弟子たちの共通の認識でした。すべてをご存じである父なる神の御前にあっても、罪の負い目のない御方。神の顔を避ける必要のない御方であり、神との完全な交わりの中にあったキリストです。ならば本来、その御方こそ死を恐れる必要のない唯一の方であったはずなのです。
にもかかわらず、ここでキリストは恐れて、もだえ苦しんでいるのです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と。――なぜですか。その「杯」が何であるかを知っているからでしょう。肉体的な苦しみならば、その苦しみを泰然として耐え忍んだ人間は歴史上にいくらでもいるのです。しかし、キリストの受けた「この杯」は、単に肉体的な苦しみではないのです。それはメシアとしての苦しみなのです。私たちを救うための苦しみなのです。
私たちを救うということは、私たちの罪を贖うということです。私たちが救われるために、私たちの罪を代わりに背負うということです。罪人として神の裁きを受け、神に捨てられた者として死んでいかなくてはならない。それがメシアとしての苦しみです。救いをもたらすための苦しみです。
実際、私たちは神の裁きが何であるかについて、本当の意味では何も知りません。自分の人生が神の御前に問われるということがどういうことかを知りません。人は「神から見捨てられた」などと軽々しく口にすることもありますが、実際に神から見捨てられるという事がどういうことか、何も知らないのです。だから罪の赦しを受けないで死ぬことを、本当の意味で恐れることもないのです。
しかし、イエス様は違います。罪人として、罪を背負ったまま死ぬことがどれほど恐ろしいことであるか、罪ある者として神に裁かれることがどれほど恐ろしく、悲しく、苦しい事であるかを御存じなのです。この世界の罪、私たち人間の罪を背負うということが、いかなる苦しみであるかを知っておられたのです。それが今日の聖書箇所におけるキリストの恐れと苦しみの姿の中に語られていることなのです。
「御心のままに」と祈るために
それゆえに、キリストはこのオリーブ山での祈りの時、祈りの場所を必要としたのです。この苦しみを耐え忍ぶために、この苦しみの中を、なお神の御心に従って進んでいくために、祈りの時、祈りの場所を必要としたのです。そこで私たちの心に迫ってまいりますのは、主の祈りの言葉です。主はこう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」。しかし、さらにこう続けます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。
この「御心のままに行ってください」という言葉が、簡単に先の祈りに続いたと考えてはなりません。キリストにおいてさえ、そこから従順の一歩を踏み出すためには、汗を滴らせながら、いよいよ切に祈ることが必要とされたのです。
そもそも「御心のままに行ってください」と祈るということは、どういうことでしょうか。私たちは「主の祈り」において、「御心が天になるごとく、地にもなさせしめたまえ」と祈ります。そうです、御心が地になるようにと祈っているのです。しかし、現実にはどうですか。そのように祈りながらも、実際には、その御心が地になることを邪魔しているのは、他ならぬ私たち自身ではないですか。
私たちが試練の中にある時にこそ、私たちの信頼と従順が問われるのでしょう。そこにおいてこそ、自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさいという主の呼び声が聞こえてくるのです。神の御心は、私たちと無関係に実現するのではありません。私たちを用いて、私たちの信頼と従順を通して実現するのです。しかし、実際にはそれを邪魔するものがある。それは私たち自身です。肉なる私たち自身です。その私たち自身が克服されることは、決して簡単なことではありません。人となられた神の子でさえ、従うために、祈りの時、祈りの場所を必要とされたのです。
しかし、私たちは知っています。いざという時には、そのように祈ること自体、決して容易なことではない。信仰が本当の意味で問われるその時に、従うために祈ることは決して容易ではありません。イエス様と対照的な弟子たちの姿がその事実を浮き彫りにしています。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」(45節)。その眠りは、単なる肉体的な状態ではありません。それはまた、彼らの霊的な状態でもあります。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と主は言われます。しかし、試練の中にあって、目覚めて祈り続けることは難しいのです。
そこで私たちはこの福音書だけが伝えている言葉に注目したいと思うのです。「いつものように」(39節)。この福音書を読みますと、度々書かれているのは祈るイエス様の姿です。ここだけではありません。ルカによる福音書には、繰り返し出て来ます。いつも祈っているイエス様。そして、エルサレムに着いてからも、度々、そこで祈っておられたのでしょう。「いつものように」。そして、それはイエス様にとって「いつもの場所」だったのです。
いよいよメシアの苦しみを受ける時を迎え、イエス様が赴かれたのは、その「いつもの場所」でした。そこで、「いつものように」祈られたのです。イエス様が、最終的に「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈り得たのは、そこが「いつものように」祈ることができる、「いつもの場所」だったからです。
「いつものように」でなければ、いざという時に祈れない。そういうものなのです。だから、「いつものように」「いつもの場所で」ということを大事にしなくてはならないのです。私たちは今、いつものように、いつもの場所に、すなわちこの礼拝堂に集まって祈っています。これを大切にしなくてはなりません。
実際、ここに集まれることは、常に自明なことではありません。事実、3年前の3月29日、コロナのためにここには誰も集まることができなかったのです。次に集まれると思っていた礼拝堂に集まれなかったのです。コロナだけではありません。その他の理由によって、自分の人生において、これがここに集まることができる最後の日となることはあり得るのでしょう。
礼拝堂に集まれる時、こうしていつものように、いつもの場所に集まって礼拝することを大事にしましょう。また、いつものように、日々、聖書を読んで祈る時間を大事にしましょう。平穏無事である時にも信仰の友と共に祈る時を大事にしましょう。主は言われます。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。そのために大事なのは「いつものように」です。
今日から受難週に入ります。キリストの御苦しみを思いつつこの一週間を過ごし、復活祭を迎えます。この期間は特に、私たちにとっての「いつものように」の部分を振り返る時でもあります。その期間を経て復活祭から再び新たに歩み始めるのです。そのような一週間を経て迎えるイースターが新たな良きスタートとなりますように。
2023年4月2日日曜日
「いつものように、いつもの場所で」
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