イザヤ書 55:1-11
渇いている者は来るがよい
今から2600年ほど前の話です。かつて繁栄を極めたユダ王国の都エルサレムは、今や無残な廃墟となっていました。バビロニア軍によってユダ王国は滅ぼされ、エルサレムは破壊され、主だった人々はバビロンに捕らえ移されていったからです。
それから50年近くの月日が流れました。時代は変わりました。バビロニアに代わって古代オリエント一帯をペルシアが支配する時代となりました。支配者の交代――それはバビロンに捕らえ移された捕囚の民にとって決定的な意味を持つことになりました。というのも、バビロンを征服したペルシアの王キュロスの統治の仕方はそれまでのものとは全く異なっていたからです。彼は占領下にある諸民族を支配するに当たり、それぞれの民族の文化と宗教を重んじるという政策を採りました。その結果、バビロンに捕囚となっていたユダの人々もまた、ユダの地に帰還し、エルサレムを再建することが許されたのでした。
今日の第一朗読は、そのような時代を背景として語られた言葉です。主は預言者を通して語られました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)。
これは何を意味するのでしょうか。ただ祖国に帰れる時が到来したのではない、ということです。そうではなくて、神のもとに帰るべき時が来たのです。今までの生活を後にして、渇きを癒す水のもとに行くべき時が来たのです。魂の飢えを満たしてくださる神のもとに帰るべき時が来たのです。いわば、信仰の生活をもう一度建て直すべき時が来たということです。
バビロンが与えてくれるものを追い求める時代は終わりました。もう既に彼らは知っていたはずなのです。バビロンから何を得たとしても、何をもって自分を満たそうとしても、本当の飢え渇きはこの世からのものでは満たされないということを。主も言われるのです。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)と。
本当の満たしは主から来るのです。主は言われます。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)。いや、それだけではありません。さらに主はこう続けます。「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」(同)。「《とこしえの》契約」です。それはすなわち、ぜったいに関係が切れないということです。主は絶対に見捨てられない。そのような関係に入れられるということです。
これらの言葉がバビロンの捕囚民にどれほど大きな意味を持っていたかを改めて思います。現実に彼らがバビロンを後にしてエルサレムへと帰還するとするならば、そこには様々な困難が予想されるでしょう。不安や恐れもあることでしょう。しかし、それでもなお彼らは旅立ったのです。それは単に祖国への旅立ちではなく、まさに主のもとへと立ち帰る旅立ちだったのです。主のもとにこそ良きものがある。主のもとにおいてこそ魂は豊かさを楽しむことになる。主のもとにおいてこそ、魂に命を得るのだ。そして、我らは永遠に失われることのないとこしえの関係に生きるのだ。彼らの旅立ちは、そのような信仰生活の再建へと向かう旅立ちに他ならなかったのです。
近くにいますうちに
しかし、そのようにエルサレムへと帰還した捕囚民を待ち受けていたのは、予想していたとはいえ、実に厳しい現実でした。彼らが目の当たりにしたのは崩れ落ちた城壁であり、焼け落ちた神殿でした。
廃墟となったエルサレム。しかし、そこで彼らが直面したのは単に生活上の困難ではありませんでした。そうではなく、彼らが改めて目にしたのは、イスラエルの罪とその結果だったのです。彼らが目の当たりにしたのは、神に背き続けるということが、どれほどの悲惨をもたらすのかという現実だったのです。彼らは神の呼びかけに背き続けた先祖の罪を思ったことでしょう。しかし、それは彼らにとって他人事ではなかったはずです。彼らは自らの罪、バビロンで生きてきた自分たちの罪をも思わずにはいられなかったに違いないのです。
そのように、神のもとに行こうとするならば、信仰に生きようとするならば、神の御前における自分自身の罪とどうしても向き合わざるを得なくなるのです。そこで人は、聖なる神と罪ある人間との間にある大きな隔たりを認めざるを得なくなるのです。自分自身の罪を思うなら、本来神に近づくことなど到底できない自分自身であることも知ることになるのです。
しかし、主はそのような彼らに対し、預言者を通してこう語られたのです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(6‐7節)。
なんと、主は自ら近くにいてくださると言うのです。主は罪ある人間の近くにいてくださる!誰でも尋ね求めさえすれば見いだすことができるほどに近くにいてくださる。呼び求めることができるほどに近くにいてくださる。罪人を断罪し滅ぼす御方としてではなく、憐れんでくださる御方として、豊かな赦しをもって近くにいてくださるのです。ならば、人間がすべきことは、立ち帰ることなのです。主の憐れみを信じて、豊かな赦しを信じて、立ち帰ることなのです。
わたしの道は異なる
とはいえ、罪の結果が厳然として目の前にある時に、罪の赦しを信じることが難しいことも事実です。そして、罪のもたらした廃墟が回復することを信じることはさらに難しい。彼らは神の裁きによって廃墟となったエルサレムを前にして、神の赦しを信じることができたのでしょうか。その廃墟が本当に建て直されると信じることができたのでしょうか。
しかし、主は彼らに言われるのです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(8‐9節)。
私たちも時として思わずにはいられないのでしょう。「こんなわたしは赦されるはずがない」と。しかし、それは人間の思いです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」のです。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」これが主の思いです。
「この廃墟が建て直されるはずはない」。それもまた人間の思いです。「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」と主は言われます。廃墟は永遠に廃墟であるように人には思えます。荒れ野は永遠に荒れ野であるように思えるのです。しかし、51章にはこのような言葉があります。「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(51:3)。これが主の思いです。それは私たちの思いを、高く超えているのです。
エルサレムの廃墟に直面した彼らに必要なことは、ただ彼らの分を弁え、へりくだることだったのです。そうです、私たちに必要なことも、私たちの思いと主の思いは異なる、私たちの道と主の道は異なるということを認めてへりくだることです。そして、私たちの思いとどれほど異なろうが、ただ主が語られる言葉に信頼することなのです。
主はこう言われます。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(10‐11節)。私たちの思いとどれほどかけ離れていようと、私たちの道とどれほど異なっていようと、最終的に神の御言葉こそが成就するのです。
さて、私たちはアドベントの季節にこの御言葉を耳にしています。キリストの到来を思いつつ、この言葉を聞いています。このように語られた主は、預言者を通して語られるだけでなく、最終的に独り子を世に遣わされて語られました。まさに御自分の御言葉そのものであられるキリストを世に遣わされて決定的な仕方で語られたのです。
キリストは言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(同35節)。そして、「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われたとおり、キリストは十字架において父なる神の御心を成し遂げられたのです。神の御子の血による罪の贖い!それは私たち人間には想像することもできなかった神の思いであり、私たち人間の道とは大きく異なる神の道に他なりませんでした。
私たちはキリストの到来と、そのキリストにおいて成し遂げられた神の御業を知る者として、改めて今日の御言葉を聞いているのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」。そして、主は言われます。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」。
(祈り)
2022年12月4日日曜日
「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」
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