ヘブライの信徒への手紙 9:23-28
死後裁きをうける私たち
本日の聖書箇所には、次のような言葉が記されていました。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(27節)。このように、聖書は確かに、死後の裁きについて語っています。そして、死後の裁きについて語る言葉は、人間に恐怖の念を引き起こします。キリスト教会には、そのような恐怖をあえて呼び起こしてきたという歴史もあります。中世に描かれた地獄絵図などは、その典型です。そのように、「死後の裁き」の教えが引き起こす感情は、第一には恐怖であると言って間違いないでしょう。
しかし、「死後の裁き」という言葉が、恐怖としか結びつかないとするならば、それはそれで極めて浅薄な、一面的な理解であるとも言えます。
そもそも人は、この世に不当なことが行われているのを見るならば、正しい裁きを求めるものでしょう。もし自分が不当な苦しみを負うことになれば、正しい裁きが行われて不当な苦しみが取り除かれることを求めるものだろうと思います。仮に自分が不当な苦しみを負ったまま死ぬことになるとするならば、死んで後でもいいから、正しく報いられることを人は望むものだろうと思うのです。
もう何年も前のことですが、シリアの内戦で負傷してまもなく亡くなった三歳の男の子が、最期に語った言葉がネット上で話題になりました。その子はこう言って死んだのです。――「神様に全部言いつけてやるから」。
この子の訴えは、この子の叫びは神様に取り上げられるのでしょうか。大人たちの様々な思惑のもとに踏みにじられた小さな命は省みられるのでしょうか。その小さな命が受けた不当な苦しみは報いられるのでしょうか。神がまことの神ならば、この子の叫びが放置されるはずはない。死後であっても正しい裁きが行われるはずだ。行われて欲しい。誰でもそう思うのではないでしょうか。
この世においては必ずしも正しいことが完結するわけではありません。この世に生きている間に、すべての決着が付くわけではありません。それは私たちも分かっているのでしょう。ならばその意味において、たとえ死後であっても、正しい裁きが行われるということは、人間にとって希望なのです。
また「死後の裁き」の教えは、私たちの一生を最終的に判断するのはいったい誰なのか、ということに関わっています。私たちは往々にして、人の評価、人の判断、人の言葉に振り回されながら生きているものです。しかし、聖書は死後における神の裁きについて語るのです。最終的に人の一生を判断するのは神である、ということです。人間ではないのです。人間が見ていようがいまいが、人間に誤解されようが、馬鹿にされようが、軽く見られようが、神様は正しく見ていてくださる。神が裁かれるとはそういうことです。その意味においても、死後に裁きがあることは、人間にとって希望なのです。
多くの人の罪を負うために
そのように、人は一方において正しい裁きを求めているし、死んだ後でもよいから、正しい裁きがなされることを求めていると言えます。しかし、もう一方において、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」という言葉には、ある種の「恐ろしさ」が伴っていることも事実です。「死後裁きにあう」という言葉を見て、単純に「ああ、嬉しい!」と思えない。それはなぜか。私たちが皆、必ずしも自分が正しく生きてはいないことを知っているからでしょう。そこでは、他の誰かではなく、私たち自身の罪が問題となるのです。
だからこそ、続く28節が重要になるのです。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。そもそも、この手紙はただ死後に裁きがあること自体を語りたかったのではありません。本当に語りたかったのはこの28節なのです。
「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた。」
天そのものに入られたキリスト
この言葉の背景にあるのは、ユダヤ人社会において一年に一度行われる「贖罪日」の礼拝です。遡って6節以下をお読みします。「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(6‐7節)。
「第一の幕屋」と「第二の幕屋」が出て来ますが、これは幕屋が二つあるということではありません。一つの幕屋が垂れ幕によって二つに仕切られているのです。垂れ幕の手前が「第一の幕屋」あるいは「聖所」と呼ばれ、垂れ幕の向こうは「第二の幕屋」あるいは「至聖所」と呼ばれていました。
一般の祭司たちは第一の幕屋までしか入れません。その奥の第二の幕屋には入れないのです。そこには大祭司だけしか入れません。しかも年に一度だけです。大祭司が第二の幕屋に入る前に、罪の贖いのための犠牲が屠られます。人々の罪が赦されるために代わりの動物が死ぬのです。大祭司はその血を携えて垂れ幕の向こうに入ります。自分自身と人々の罪が赦されるために、定められた贖いの儀式を行い、血を携えて神の御前に出るのです。
このように動物を屠って、その血を携えていくという儀式は、今日の私たちの感覚からすれば極めてグロテスクなものと映ります。いったいどうして神はこのような儀式を行うことを命じられたのでしょう。――それは、このような目に見える儀式をもって、目に見えない世界において起こることを教えるためだったのです。本当に意味あることは、目に見えない神の御前で起こることです。天において起こることなのです。しかし、それは目に見えない。私たちには分かりません。だから目に見える「写し」が必要なのです。それは目に見えないことを示しているからです。
24節にはこう書かれていました。「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」(24節)。大祭司が第二の幕屋に入るのは、ある意味では神の御前に出ることだったわけですが、それはあくまでも「写し」としての儀式に過ぎません。しかし、キリストは本当の意味で神の御前に出てくださったのです。
大祭司はその手に犠牲の血を携えていました。罪の贖いのための血です。しかし、それはあくまでも「写し」に過ぎません。大祭司が毎年この儀式を繰り返したのも、それは「写し」に過ぎないからです。しかし、目に見えないことが、一度限り、決定的なこととして起こりました。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(25‐26節)。
これが「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」ということです。キリストが私たちのためにしてくださったことです。目に見えるところにおいては、十字架上において惨めに死んでいったキリストです。しかし、目に見えない世界において、目に見えない神の御前において、私たち人間にとって決定的に重要なこと、すなわち罪が取り去られるということが起こったのです。私たちの罪を負うために、キリストは身を献げてくださったのです。
救いをもたらすために現れてくださる
そして、聖書はさらに言葉を続けます。28節全体をお読みします。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。
このように聖書は、キリストが一度目に来られた時に私たちのためにしてくださったことだけでなく、二度目に来られて私たちのためにしてくださることについて語っています。一度目のことは既に起こったことです。二度目のことはまだ起こっていないことです。私たちの現在の教会生活はその二つの間にあります。
この二つの間にあるということは、キリストの成し遂げてくださったことによって罪の赦しは受けているけれど、完全な救いはまだ待ち望んでいる状態だということです。罪を赦された者として神の前に生きることはできるけれど、完全な救いを待望する者として忍耐が求められているということです。実際、この手紙には「忍耐」という言葉が繰り返し出てきます。
キリストが「救いをもたらすために現れてくださる」。これは、救いは向こう側から来るということです。私たちが到達するのではありません。救いは向こう側から来るのです。それはいつか。「その日、その時は、だれも知らない」(マルコ13:32)とキリストは言われました。それがいつかは分からないけれども、はっきりしていることがあります。いかなる苦しみも永遠ではないということです。それは次の瞬間には終わっているかも知れない苦しみなのです。救いは向こうから来るからです。
そのように、私たちのために、この世界のために、既にキリストがしてくださったことがある。そして、私たちのために、この世界のために、キリストがしてくださることがある。その意味でキリストは既にこの世界に与えられた救いです。そして、この世界の希望なのです。そのことを覚え、世界中の教会と共に、聖餐を行い、喜び祝いましょう。
(祈り)
2022年10月2日日曜日
「世界の救い、世界の希望」
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