2021年6月13日日曜日

「地の塩、世の光」

マタイによる福音書 5:13‐16

キリストによる宣言
 「あなたがたは地の塩である」。「あなたがたは世の光である」。先ほど朗読されましたイエス様の言葉です。これは勧めの言葉ではありません。命令でもありません。「あなたがたは地の塩になりなさい。あなたがたは世の光になりなさい」と言っておられるのではありません。これは宣言です。イエス様が御自身の権威をもって宣言されるのです。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と。

 意味なく目的もなく鍋に塩を入れる人はいません。塩を入れるとしたら、例えば味を付けるとか、腐敗を防ぐとか、何らかの目的をもって入れるのです。意味もなく目的もなく明かりを灯す人はいません。明かりを灯すのは、例えば部屋を明るくするために灯すのです。そのように、イエス様が「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と言われるならば、そこで明らかなことは、私たちがどのような者であれ、決して意味のない存在ではないということです。私たちがこの地上に置かれているのには神の目的があり意図がある。神は目的をもって「地の塩」として、私たちをこの地上に投入されたのです。神は目的をもって「世の光」として、私たちをこの世の中に灯されたのです。

 その目的とは何でしょう。鍋に塩が投入されるならば、そこに明らかに変化が生じます。味が変わるでしょう。大目に塩を入れるならば、中身は腐敗しにくくなるでしょう。明かりを灯すならばその部屋が明るくなるという変化が生じます。そのように、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」とイエス様が言われるならば、私たちの存在の意義は、この地上に、この世に変化をもたらすことにあります。いわば神はこの世界を変えるために、地の塩を投入し、明かりを灯されたのです。

 変化をもたらすためには力が必要であると私たちは考えます。「私たちに何ができるだろうか」と考えます。しかし、この言葉は、当時の権力者たちに語られたのではなく、社会において権力や影響力とはまったく無縁であった、あの弟子たちに語られた言葉だということを忘れてはなりません。そして、世々の教会がこの言葉を聴いてきたこと、特に迫害の嵐に翻弄される木の葉のような教会が、この主の言葉を聴いて受け止めてきたことを忘れてはなりません。そして、今、この教会においてイエス様の言葉が読まれ、そして聴かれているのです。

 キリストが人間の生まれながらの力や、現在持っている能力や影響力に目を向けて「あなたがたは地の塩である。世の光である」と言われる御方ならば、主は弟子たちの集まりでこの言葉を語りはしなかったろうと思います。もっと力のある優秀な人々の集まりにおいて語ったに違いない。しかし、主はそうなさいませんでした。かつても主はそうなさらなかったし、今もそうなさらないのです。

 主が目を向けておられるのは人間の能力や影響力ではありません。そうではなく、「信仰」なのです。教会には様々な人が集まっています。共通であるものは一つを除いて何もないと言って良い。その一つとは「信仰」です。キリストは、ただ「信仰」のみを共通項として集まっている私たちに対して、私たちの信仰に目を向けて、こう言っておられるのです。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と。

塩気を失ってはならない
 ならば、私たちが自らに問うべきことは、「何ができるか」ではありません。主の御前で自らの信仰を問わなくてはならないのです。これは信仰の問題なのです。それゆえに主は「あなたがたは地の塩である」と宣言した上で、さらにこう続けられるのです。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(13節)。

 「塩に塩気がなくなれば」というのは面白い表現です。実際に、そんなものが存在し得るかどうかは別として、意味合いは分かります。しょっぱくない塩が仮にあったとしても、それは塩としては使えません。「いや、これは塩なんですよ。間違いなく塩なんです。ただ塩気がない、しょっぱくないだけなんです」などと言っても、意味がありません。塩ならば他のものと明確に区別される独自な味、「塩味」があってこそ、その目的を果たすことができるのです。

 他の白い粉と全く区別がつかなくなった塩。それはもはや塩としては使えません。そのように、信仰を言い表すこともなく、実際に信仰を生きることもなく、信仰のない人と全く区別がつかなくなってしまった信仰者。――そうなってしまったら、信仰者として神の目的を果たすことはできません。

 教会についても言えます。仲は良いけれど信仰の味がしない交わり。この世の集まりと変わらなくなってしまった教会。活動的ではあるけれども、キリストを証しすることも、神を指し示すこともなくなってしまった教会。もしそうなってしまったならば、教会として神の目的を果たすことはできません。

 信仰者には信仰者にしかできないことがあるのです。キリストをこの世に伝えることは、キリストを信じる者にしかできないことなのです。神の愛を証しすることは、神に愛されていることを知った人にしかできないことなのです。キリストによる救いを宣べ伝えることは、キリストの救いにあずかった教会にしかできないことなのです。そのように、塩には塩にしかできないことがあるのです。

 その味を失ったら、塩はもはや塩としては使えません。逆に言えば、塩味さえあればよいのです。主は、「あなたがたが無能ならば、失敗ばかりしているならば、もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」とは言われませんでした。私たちは大きなことができなくても良い。多くのことを為しえなくてもよい。失敗ばかりしている者であってもよい。私たちに力があるかないかの問題ではないのです。塩味さえあればよいのです。地の塩なのですから。塩味さえ失わなければ、神は私たちをこの世において地の塩として用いることがおできになるのです。

あなたがたの光を輝かしなさい

 同じことは、「あなたがたは世の光である」という言葉についても言えます。主はその宣言に続いて、次のように語られるのです。「山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」

 「山の上にある町は隠れることができない。」とキリストは言われます。信仰を明らかにし、信仰者として生き始める時、もはや隠れることができなくなります。キリストを信じる人として見られるようになります。ある意味では、特別な目で見られるようになる、ということです。

 洗礼を受けた人が恐らく一生のうち一度は耳にするであろう言葉があります。「それでもお前はクリスチャンか」という言葉です。それはつまり、特別な目で見られている、ということです。他の人がやっても何も言われないことが、キリスト者ならば言われる、責められる、ということが起こります。そのことを恐れて、洗礼を受けることを躊躇している人もあるかもしれません。あるいはキリスト者となった後にも、キリスト者であることを隠そうとする人もいます。教会に行っていることを内緒にしたくなるということもあるかもしれません。

 しかし、イエス様は「特別な目で見られて良いのだ。いや、そのように見られるべきなのだ」と言われるのです。「なぜなら、あなたがたは世の光なのだから。光を枡の下におく人はいないのだから」と言われるのです。そして、主はさらに積極的に「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と言われるのです。

 これが信仰とは無関係な世の中一般の話であるならば、「立派な行い」を人々が見た時に、人々が称賛するのは、「立派な行い」をしている当の本人なのでしょう。しかし、主は「あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と言われるのです。

 ならば当然のことながら、ここでも「光を輝かせる」というその「光」は、天の父から来ている光です。すなわち、信仰のことです。立派な行いというのも、天の父から来ているもの、すなわち信仰から生じた実りのことです。そうでないと、「あなたがたの天の父をあがめるようになる」ということは起こらないのです。

 実際、私たちが自ら輝こうとする時には、私たちはどうしても偽善的にならざるを得なくなるのでしょう。私たちの「立派な行い」は、結局は「わたし」があがめられるとことを求めているものでしかない、ということが起こります。それゆえ、重要なのは私たちの「立派な行い」そのものではなく、その背後にある信仰生活なのです。本当に神と共に生きているか。御言葉に聴き、祈りをささげ、神との生きた交わり中に生きているかということなのです。

 あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。そうイエス様は言われました。私たちの日常は、もしかしたら毎日同じ繰り返しの平凡な生活であるかもしれません。あるいは無意味に思える労苦が延々と続くだけに見える辛い生活がそこにあるかもしれません。しかし、そこに私たちが存在し、生きていることには意味があると主は言われます。永遠の意味があるのです。なぜなら私たちを投入し、私たちを灯されたのは神様ですから。大切なことは、信仰によって生きることです。御言葉に耳を傾け、日々祈りをささげ、神との交わりの中に生き、信仰の味をもって、また信仰による光を輝かせて生きることなのです。

(祈り)

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