2ヨハネ1‐13
真理と愛
本日の礼拝ではヨハネの書いた二番目の手紙が読まれました。とても短い手紙です。全体で13節しかありません。私信のようにも見えます。第一の手紙と続けて読むと分かりますが、内容的には第一の手紙とほとんど重複しています。そんな手紙が聖書に含まれているのはとても不思議なことにも思えます。
しかし、逆に言えば、内容が重複している短い手紙を聖書に入れなくてはならないほど、ここで扱われている問題は当時の教会にとっても、後の教会にとっても極めて深刻な問題であったということでもあります。それは異端の問題です。教会が正しい教えからはずれて行ってしまうという問題です。ですから、何度でも同じことが語られなくてはならなかったし、繰り返し心に刻まれなくてはならなかったのです。
ところで、これは私信のようにも見えると申しましたが、宛名は「選ばれた婦人とその子たち」としか書かれていません。私信であるならば、名前を書いて良いはずなので、「婦人」と約されている「キュリア」という言葉は固有名詞だろうとも言われてきました。そうしますと「キュリアさんとその子どもたちへの手紙」ということになります。
しかし、もう一つの解釈があります。この「婦人」とは教会を指し、「その子たち」は教会員を指すという解釈です。ギリシア語で「教会(エクレシア)」は女性名詞ですから「婦人」という言い方で表現できなくもありません。旧約聖書ではエルサレムが「彼女」と呼ばれ、また「シオンの子ら」などという表現も出て来ますので、ちょうどそのような表現に相当すると考えられます。「真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています」(1節)という表現も、単に個人とその子供たちについて語っているというよりは、むしろ「真理を知っている人は教会を愛する」と語っていると考えられるわけです。
そのようにいろいろ解釈はありますが、それが教会に対してであれ、個人とその子らに対してであれ、今日ここで注目したいのは「真理」と「愛」とが結びつけられているという点です。「真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています」。
その前に書かれている1節の前半についても同じことが言えます。そこには「わたしは、あなたがたを真に愛しています」と書かれています。これは「あなたがたを真理において愛しています」というのが直訳です。また、3節にもこう書かれていますでしょう。「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります」(3節)。ここでも真理と愛が結び付けられています。
また、4節には、「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」とあります。「掟どおりに、真理に歩んでいる」のです。その「掟どおり」ってどういうことですか。次にこう書かれています。「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです」(5節)。そのような掟どおりに真理に歩むのです。「互いに愛し合う」という掟どおりに真理に歩むのです。ここでもまた真理と愛とが結びつけられていますでしょう。
このように、私たちがこの短い手紙を通して、まず聞き取らなくてはならない大切なメッセージは「真理と愛を切り離してはならない」ということなのです。
「真理」とは、この場合、「正しい信仰」のことです。「正しい教え、正しい教理」と言い変えても良いでしょう。もう一方で異端のことについて話しているわけですから。教理的に正しくあること、正しい信仰に踏みとどまること、それはとても大事なことなのです。同じような手紙を送り、繰り返し語られなくてはならないほどに、大事なことなのです。しかし、その真理はすでに見てきたとおり、「愛」と結びついてこそ意味を持つのです。「御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる」ことが重要なのです。
逆に言えば、「真理に歩んでいる」と言いながら、「御父から受けた掟どおり」に歩んでいなかったら、何かが間違っていると思わなくてはならない、ということです。「わたしは正しい信仰を持っている。わたしは真理を知っている。わたしは神を知っているし、わたしはキリストとの交わりがある」と言いながら、教会を愛することがない、互いに愛することもない。他の人との関係を考えることなく、ただ神と自分との関係、キリストと自分の関係しか考えられないとしたら、それは何かが間違っている、ということです。愛から切り離された真理はあり得ないのです。
神が具体的に愛してくださったのだから
どうして、このようなことがあえて語られなくてはならないのでしょうか。どうしてここで真理だけでなく「御父から受けた掟」について語られなくてはならないのでしょうか。ヨハネは7節でこう説明しています。「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとはしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです」(7節)。
ここで「人を惑わす者」と繰り返されていますが、彼らは後に「グノーシス主義者」と呼ばれるようになる異端の人たちです。ここに書かれているように、彼らはキリストが肉となって来られたこと――キリストの受肉――を否定する人たちでした。キリストが私たちと同じ体を持った人間となられたことを否定するのですから、当然のことながら、その体をもって成し遂げられた罪の贖いも信じません。というよりも、そもそも罪の贖いを必要としていなかったのです。
彼らはこの目に見える体も、この物質世界も本質的に無価値で無意味であると考える人たちでした。ですから、その体が物質世界において何を行うかは本質的に何の意味もないのです。この体が悪を行おうが善を行おうが、それはどうでもよいことなのです。ですから、自らの罪を悔いることもなければ、神に赦しを願い求めることもありません。ただ魂の牢獄である体から魂が解放されることこそが救いなのです。
そのような「人を惑わす者」が大勢世に出て来たと語ります。しかし、そのようなグノーシスの異端には、それはそれとして層の厚い哲学的思想的背景があるのです。それはちょっと何かを語ったぐらいで否定できるようなものではないのです。いや、思想的背景だけではありません。異端の人たちには、それなりの神秘的な体験もあるのです。それもまた簡単に否定できることではないのです。
ですから「これが正しい信仰だ」と言って、ただ単に受肉や贖罪に関する教理的な言葉をオウム返しに繰り返していても、彼らに対しては何の力もないのです。そんなことでは簡単に足下をすくわれてしまいます。「キリストが肉となられた」「キリストは十字架において罪の贖いを成し遂げられた」と言うならば、その信仰理解が目に見える現実の信仰生活を作り出しているのでなければならないのです。そこでキーワードとなるのが「愛」なのです。
神はキリストを通して、単に正しい教えを与えてくださったのではありません。そうではなくて、神は私たちを「愛してくださった」のです。そして、愛は観念ではないのです。愛は具体的な行為です。具体的であるためには、そのために「体」が必要なのです。ですから、神は御子に「体」を取らせたのです。神がこの世界を、私たちを、具体的に愛するためです。それが極まるところが十字架なのです。その体をもって成し遂げられた罪の贖いなのです。
その神の具体的な愛を、第一の手紙ではこのように表現していました。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:9‐10)。
ゆえに「真理」というのは、単に観念的な「正しい信仰」ではないのです。真理とは、神が肉となって体をもって現してくださった具体的な愛なのです。ですからイエス様は「わたしは真理を教えてあげよう」と言わないで、「わたしが真理だ」と言われたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と。ですから、この受肉と贖罪の信仰を真理として受け取るということは、神の具体的な愛を真理として受け取るということなのです。
ならばそこでは、当然のことながら、私たちもまた「体」を持っているということが極めて大きな意味を持つことになります。神の具体的な愛を知ったならば、グノーシスの異端のように、「目に見える物や目に見えるこの世界には意味がない。この肉体には意味がない。肉体が何を行うかは重要なことではない」とは言わないはずなのです。真理を知ったということは、この世の体が具体的に愛を現すための体だということを知ったということでもあるのですから。この体をもって生きる人生は、具体的に愛をこの世界に現すために与えられた人生であると知ったということですから。
それゆえに、先ほど引用した1ヨハネの言葉はこう続くのです。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(1ヨハネ4:11)。これが既に述べられている「御父から受けた掟」です。その掟は、神の具体的な愛を通して与えられたのです。それゆえに「真理」に歩もうと思うならば、この「掟どおりに真理に歩む」ことが重要なのです。
そしてさらに、ヨハネは次のように勧めます。「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません」(10節)。家に入れない。挨拶もしない。それは愛にもとる行為ではありませんか。 ――いいえ、それほど単純な話ではありません。というのも、この場合、「あなたがたのところに来る者」とは一般的な人の話ではなくて伝道者の話であるからです。また、当時は今日のような教会堂などありませんから、比較的広い家に集まって礼拝していたのです。ですから、「家に入れる」とか「挨拶する」とは一般的な意味ではなく、教会に受け入れたり、仲間であることを表明したりする話なのです。
真理をないがしろにして、真理に目をつぶって、異なる教えを教会に受け入れるようなことがあってはならないとヨハネは言っているのです。そのように真理をないがしろにすることは、本当の意味で誰をも愛することにならないからです。愛から切り離された真理はない。しかし、真理から切り離された愛もないということです。