2019年12月1日日曜日

「廃墟が歓声を上げ、喜び歌う時が来た」

イザヤ書52:7‐10

 時は紀元前六世紀。バビロニアの軍事侵攻により、かつてダビデ・ソロモンの王国として繁栄を極めたユダ王国は、ついに滅亡することとなりました。王国の都エルサレムの城壁は破壊され、彼らの心の拠り所であったエルサレムの神殿も焼き払われてしまいました。そして国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。後に残ったのは廃墟となったエルサレムでした。

 それから五十年近くの時が流れました。捕囚とされた民の中に一人の預言者が現れ、神の言葉を宣べ伝え始めました。その預言はイザヤ書40章以降に記されています。今日読まれたのもその一つです。彼は言います。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」(9節)。大変不思議な言葉です。「共に喜び歌え」と呼びかけられているのは、美しく建て直されたエルサレムではありません。廃墟とされたエルサレムが、いまだ廃墟のままであるにもかかわらず、いまだボロボロの惨めな姿であるにもかかわらず、「歓声をあげ、共に喜び歌え」と呼びかけられているのです。

 それはいったいなぜなのでしょうか。この呼びかけには次のような言葉が続きます。「主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。この行の先頭には、訳出されてはいませんが、「なぜなら」と訳し得る小さな言葉が置かれています。つまり、これが「喜び歌え」と語られている理由であり根拠なのです。主の「慰め」と「贖い」です。

主はその民を慰められた
 「主はその民を慰められた!」聖書が語る「慰め」とは何でしょう。一般的に私たちが思い描く「慰め」は、「歓声」や「喜びの歌」とは結び着かないように思います。廃墟に向かって「歓声をあげ、共に喜び歌え」と言うからには、その根拠となる「慰め」は、私たちが思い描くものとは全く異なるものであるに違いありません。

 それは何であるのか。そこで必要なのは、まず語りかけられている「廃墟」を理解することであろうと思います。この廃墟となったエルサレムについては、バビロニアに破壊されたのだということを既に述べました。しかし、預言者はこれを単純に戦争の結果としては語りません。51章17節まで遡ると、そこには次のように書かれています。「目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した都よ」。

 そのように、エルサレムを実際に破壊したのは、バビロニアの軍隊なのですが、彼はそこに神の裁きを見ているのです。彼らの罪に対する神の怒りの現れを見ているのです。廃墟をもたらしたのはバビロニアではなく、イスラエルの罪だというのです。それが「廃墟」の意味するところなのです。

 しかし、そのエルサレムに対して、一転して慰めが語られるのです。怒りを現された主御自身が、今度は「慰めるもの」としてエルサレムに語りかけられるのです。「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」(51:12)と言われるのです。その意味するところは明白です。「罪の赦し」です。エルサレムは確かに神の怒りのもとにありました。しかし、その怒りは取り除かれたのです。「あなたの主なる神、御自分の民の訴えを取り上げられる主はこう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を、あなたは再び飲むことはない」(51:22)と主は言われるのです。

 神が赦してくださるということは、決定的な転換を意味します。そこで運命が変わるのです。それゆえに、「目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ、エルサレム」(51:17)と語りかけられているのです。そして、52章に入って、「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ」(52:1)とまで語られているのです。

 エルサレムは廃墟の中から立ち上がることができるのです。罪が赦されたからです。もはや主の怒りのもとにはないからです。これが聖書の語る主の「慰め」です。神が人間の罪を赦してくださる。そこにこそ、真に回復の力をもった「慰め」があるのです。主はその民を慰められました。それゆえ、エルサレムの廃墟は歓声をあげ、喜び歌うことができるのです。

主はエルサレムを贖われた
 さらに、「(主は)エルサレムを贖われた」と書かれております。「贖う」という言葉も、この書に繰り返されている鍵語の一つです。同じ言葉が3節では「買い戻す」と訳されています。この「贖う」という言葉は、もともと奴隷を「買い戻す」という意味合いで用いられた言葉だったのです。例えば、レビ記25章に出てきます。貧しい人が身売りして誰かの奴隷になった場合、その人の兄弟や一族の血縁の者がその人を買い戻すことができるのです。そのように土地や人などを買い戻すことを「贖い」と言います。そして、買い戻す義務を負う近親者を「贖う者(ゴーエール)」と呼んだのです。

 「エルサレムを贖われた」という言葉は、このような背景を持っています。「贖われた」と語られているということは、それまで奴隷状態にあったことを意味します。事実、2節では、「捕らわれのエルサレム」「捕らわれの娘シオン」と呼ばれています。これは第一にはバビロニアに征服されたことを指しているのでしょう。しかし、そのエルサレム・シオンが主によって買い戻されるのです。「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらず買い戻される」(52:3)と主は言われるのです。

 実際、その時代に、政治的には大きな変化がありました。バビロニアの支配から、ペルシアの支配へと変わりました。新しい支配者であるペルシアの王キュロスは、被占領民族の文化と宗教を尊重する政策を採りました。ですから、捕囚のイスラエルの民についても勅令が発布され、彼らはエルサレムへの帰還と神殿の再建が許可されたのです。その意味において、捕囚の民は確かに解放されました。これは驚くべき大いなる出来事であったに違いありません。

 しかし、預言者はこれを全く異なる視点から語ります。彼らは単に政治的に解放された者としてエルサレムに帰るのではないのです。そうではなくて、捕囚の民は、神によって買い戻された民としてエルサレムに帰るのです。

 先にも言いましたように、エルサレムの廃墟に現れていたのは、神の怒りであり裁きでした。売られて奴隷となったのは、その罪の負い目のゆえでした。そのような民を、もはや買い戻す価値のないようなエルサレムを、主は憐れみと赦しをもってあえて買い戻されたのです。御自分のものとされたのです。すなわち、本当に大きな出来事は、政治的な変化ではなく、神と人との関係の変化なのです。

 それゆえに、彼らを治めるのは、もはやバビロニアの王ではなく、ペルシアの王でもありません。主が彼らの王として即位されるのです。バビロニアをもペルシアをも支配し給う主が、全地の主である御方が、彼らの王として、御自分のものとされた都に帰ってこられるのです。

 もちろん、そのことが起こるのは、あくまでも未来のこととして語られています。現実にエルサレムを支配しているのはペルシアです。エルサレムはいまだに廃墟のままです。何も変わってはいないように見えます。しかし、事は既に起こったのです。神との関係において、既に決定的な転換が起こっているのです。主はエルサレムを贖われました。それゆえに、エルサレムの廃墟は、もはや嘆きの中に座り込んでいる必要はないのです。歓声をあげ、共に喜び歌うことができるのです。


歓声をあげ、共に喜び歌え
 さて、今週から「待降節(アドベント)」に入りました。先週申し上げましたとおり、アドベントという呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。キリストの到来です。救い主は来られました。そのことを思います時に、今日与えられている御言葉は、特別な響きをもって私たちに呼びかけてきます。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。

 救い主は来られました。救い主は世に来られて私たちの罪のために十字架におかかりくださいました。救い主は世に来られて、私たちの罪の代価を完全に支払ってくださいました。そのようにして、私たちを主のものとしてくださいました。主の慰めが訪れました。主は私たちを贖ってくださいました。

 そして、その良き知らせが、私たちのところにも伝えられているのです。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(7節)と書かれているようにです。そして、私たちにも「歓声をあげ、共に喜び歌え」と呼びかけられているのです。私たちが今なお廃墟のような有様であったとしても、そのような私たちに呼びかけられているのです。「歓声をあげ、共に喜び歌え」と。既に救い主は来られたからです。既に主によって贖われ、主のものとされているからです。

 そして、主のものとされているならば、廃墟は廃墟のままでは終わらないのです。やがて完全に救われる時が来るのです。私たちが救いに到達するのではありません。最終的な救いは向こうから来るのです。「到来」するのです。既に救い主は到来しましたが、聖書はもう一つの「到来」について教えています。キリストが再び来られる。これをキリストの再臨と言います。最終的な完全な救いは向こうから来るのです。

 その意味において、私たちは「すでに」と「いまだ」の間に立っています。既に私たちは罪を赦され、主の慰めを得ました。既に私たちは主によって贖われ、主のものとされました。そのような者として、私たちは最終的な救いを待ち望んでいます。それが私たちの信仰生活です。その意味において、アドベントは「すでに」と「いまだ」の間にあることを意識する期間であると言えるでしょう。その時の間を私たちはどのように生きるのか。この問いに、このアドベントの期間、しっかりと向き合い、自らを省みたいと思います。

(祈り)

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