2019年11月3日日曜日

「希望に生きる」

1ペトロ1・3‐9

新たに生まれさせてくださいました
 今日の礼拝ではペトロの手紙が読まれました。小アジア地方の諸教会に宛てた手紙です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙の読者は様々な苦しみの中にあった人たちです。具体的には迫害のもとにあって苦しんでいたということでしょう。彼らは人々からの軽蔑や嘲笑を耐えなくてはなりませんでした。悪人呼ばわりされ、不当な苦しみを強いられていました。そのような中に生きている人たちを励まし力づけるために、この手紙は書かれました。

 そのような教会の人々に対して、ペトロはまず何を語ろうとしているのでしょうか。彼は挨拶に続けて、次のように書き始めます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)。ペトロは、彼らが受けている試練について語り出す前に、まず神を誉め讃えるのです。そして、神の御業について語るのです。「人々があなたに何をしたかではなく、神があなたに何をしてくださったか――まずそのことに目を向けようではありませんか!」あたかも、そのように語りかけているかのようです。

 では、その《神がしてくださったこと》とは何でしょう。ペトロがここで中心的な事柄として語っているのは、このことです。――「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせてくださいました!」(3節)。

 聖書によるならば、人間は二度生まれることができます。一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。毎年「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生のことです。私たちは必ず誰かを親として生まれてきます。誰かを親とする家族の中に生まれてきます。そのようにして私たちはこの人生をスタートする。これが一度目の誕生です。

 この誕生だけを経験して一つの人生を生き、一生を終える人もいます。しかし、聖書によるならば、人はもう一度誕生することができるのです。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。信仰によってもう一つの人生がスタートします。一度目の誕生において、この世の親の子供として生まれたように、二度目の誕生においては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。一度目の誕生において、この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中にいるわたし」が生まれます。

 イエス様は「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと教えられました。そのように、神の家族として、「天にまします我らの父よ」と祈りながら生き始める。そのようにして、私たちは二度目の誕生による新しい人生を生きていく。それが教会における「信仰生活」です。

 そして、ここに語られているように、二度目の誕生は「神の豊かな憐れみ」によるのです。先ほど「二度目の誕生においては、『神の子供としてのわたし』が生まれます」と申し上げましたが、話はそう単純ではありません。ペトロはこの直前において、あえて「わたしたちの父である神」ではなくて、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と言っていますでしょう。その御方は第一には、イエス様が「父よ」と呼んでいた神様なのです。

 その神様を、私たちもイエス様と同じように「父よ」と呼べることは、決して自明のことでではありません。私たちはイエス様と違って、幾度となく神に背きながら生きてきた者だからです。イエス様と違って、私たちはどう考えても「神の子供」に相応しくない。そのような私たちが神の子供にしていただけるとするならば、それは一重に神の憐れみによるのです。私たちの罪を赦してくださる神の豊かな憐れみによるのです。

 そして、神の憐れみは具体的な形を取って現されたのです。神は独り子を世に遣わされました。罪なき御子を私たちの罪を贖う犠牲とされました。イエス様は、「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと言ってくださいましたが、それは神の憐れみを知っている方の言葉です。神の憐れみの現れとしてこの世に来られた方の言葉です。神の憐れみの現れとして、十字架にかかるためにこの世に来られた方の言葉なのです。

死によっても失われない希望
 そして、この憐れみによる二度目の誕生に伴い、さらに二つのことが語られています。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(3‐4節)。

 第一に、私たちに「生き生きとした希望」が与えられているのだと語られています。「生き生きとした希望」というのは「生きている希望」という言葉です。たいへん味わい深い表現です。「生きている希望」と書かれているということは、もう一方において「生きていない希望」「死んだ希望」もあるということです。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方には命があり、もう一方には命がない。希望が真の命を伴っていなければやがて枯れて消えていきます。そのような、やがて枯れてしまう希望は、私たちの周りにいくらでもあります。そのような希望によって、幾度となく浮き沈みを繰り返してきた人は少なくないのでしょう。

 枯れない希望。命ある希望。生きている希望。失われない希望。それはどこから来るのか。今日の聖書箇所に「生き生きとした希望を《与え》」と書いてありました。誰が与えてくれたのか。神様です。生きている希望は神から来るのです。それはこれを書いているペトロの体験でもあったのです。

 皆さんもご存じのように、ペトロはイエス・キリストが捕らえられた時、三度もキリストを「知らない」と言った男です。キリストが十字架にかけられた時、主を見捨てて逃げてしまっていた、そういう男です。キリストが葬られた後も、自分が同じ目に遭わされるのではないかと、家の中に閉じこもり、戸を閉ざしてビクビクしていた男です。――取り返しのつかないことをしてしまったという罪責感。自分の弱さや醜さに対する深い絶望。彼にとって、あの日、彼の人生は終わったのです。全ては終わったのです。それでもなお呼吸を続けるならば、あとは生ける屍として惰性で生きていくしかなかったのでしょう。その先に何も待ち望むものを持たないまま、生きていくしかなかったのです。すべては終わったのですから。

 ペトロ。そんなペトロが、どうして再び立ち上がり、前を向いて希望をもって生きるようになったのか。未来に向かって歩み始めることができたのか。それはペトロにとって終わりであっても、神にとっては終わりではなかったからです。神はその事実をはっきりと現してくださいました。何によって。イエス・キリストの復活によってです。ですからペトロはこう表現しているのです。「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(3節)。

 「死者の中からのイエス・キリストの復活」とは何でしょう。人間にとっては決定的な「終わり」である「死」でさえも、神にとって「終わり」ではないということです。その先へと続くのです。いや、むしろそこから始まるのです。神は終わりを始まりにすることがおできになる。そのように、ペトロの人生も絶望の中で終わったところから、新しく始まりました。ただ神によって!そして、そのように生き生きとした希望を与えられたのはペトロだけではありませんでした。だからこのことが書き記され、読まれ、今日に至るまで伝えられているのです。今もなお、ここにいる私たちにも、その生き生きとした希望、死によってさえも失われない希望は差し出されているのです。

 そして、二度目の誕生に伴って語られている第2のことは次のように表現されています。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。そのように、死によってさえも失われない希望があるということは、言い換えるならば、死によって失われない未来があるということです。

 一般的には、死は未来を奪うのでしょう。死によって未来は失われるのでしょう。元気に生きていた人が死を宣告されるということは、未来を失うということを意味するのでしょう。高齢になり、あるいは病気になり、死が近づいてくるということは、未来を失っていくということなのでしょう。しかし、そうではないと聖書は言うのです。死によって奪われない未来がある、と。

 もちろん死の先は私たちの想像を超えた未来です。具体的に思い描くことができません。なので、たとえば「財産を受け継ぐ」というある意味では陳腐な言葉をもってしか表現できないのでしょう。しかし、それでもなおそこには大事なことが表現されていると言えます。「受け継ぐ」というのですから、それは自分が蓄えたものではありません。自分の行った善き行いに対する報酬でもありません。神の憐れみによって神の子供とされるように、「財産を受け継ぐ」とするならば、それは神の憐れみによるのです。

 死の先の未来を私たちは思い描くことはできません。しかし、「財産を受け継ぐ」というのですから、それは喜ばしい未来であることに間違いはありません。それはただ神の憐れみによって備えられた、喜ばしい未来です。それゆえに、人は死においてもなお、その先に喜ばしき未来を待ち望むことができるのです。実際、皆さんは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができるのではありませんか。人は人生最後の一呼吸に至るまで、期待に胸を膨らませて、未来を待ち望みながら生きることができるのです。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったから。受け継ぐべき喜ばしき未来が備えられているから。

(祈り)

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