2019年5月5日日曜日

「キリストの手足に残る傷跡」

ルカ24:36‐43

  「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(36節)と書かれていました。明らかにドアをノックして入ってきたようには書かれていません。それこそ亡霊のように突然、彼らの真ん中に現れたという書き方です。ヨハネによる福音書では殊更に「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20:19)とまで書かれています。鍵をかけていた部屋に、イエス様が突然現れた。だから彼らは亡霊を見ているのだと思って恐れおののいたのです。

 今日の聖書箇所の直前には、イエス様の姿が突然「見えなくなった」(31節)という話が書かれています。先週お読みした箇所です。そのように復活したイエス様は、突然見えなくなったり現れたりされるのです。にもかかわらず、そのイエス様が今日の箇所ではこう言っておられるのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(39節)。

 どう考えてもおかしいでしょう。亡霊ならまだわかります。突然に現れたり消えたりしても文句は言いません。亡霊ですから。しかし、肉や骨があると言うならば、突然消えたり現れたりしないでほしいと思います。しかも、イエス様はわざわざ「ここに何か食べ物があるか」と言われるのです。そして、差し出された焼き魚を「彼らの前で食べられた」というのです。突然現れたり消えたりする方ならば、焼き魚を食べるのだけはやめて欲しい。どう考えてもおかしいでしょう。もしここでイエス様がまた突然見えなくなったら、食べた焼き魚はどうなるのでしょう。焼き魚まで消えるのでしょうか。

 しかし、こういう理屈に合わない奇妙な話を、キリスト教会はこの二千年間大真面目に伝えてきたのです。それは単に「理屈に合おうが合うまいが、実際に見たんだからしょうがないだろう」ということではないのです。もしその程度のことなら、それを実際に見ていない次の世代か、あるいはその次の世代でこの話は消えていったはずです。しかし、そうではなくて、幾世代も伝えられてきたというのは、これが私たちの救いに関わるとても大切なことを語っている話であるからに違いありません。そのメッセージを、私たちはしっかり聞き取らなくてはならないのです。

 今日の箇所において、復活したイエス様は、明らかに御自分が「亡霊ではない」ということにこだわっています。「「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(39節)。体のない「霊」ではなくて、「体を持っているのだよ」ということがイエス様にとっては相当重要のようです。それこそ魚を食べてデモンストレーションまでなさるほどに、こだわっておられる。

 実は、このイエス様のこだわりこそ、後の教会もまた徹底的にこだわり続けてきたことなのです。このこだわりを、後の教会は次のように表現しました。「我は体のよみがえりを信ず」――毎週、私たちが口にしている使徒信条の言葉です。

体のよみがえりを信ず
 皆さんは使徒信条のこの言葉をどんな思いで口にしておられるでしょうか。これが「我は体のよみがえりを信ず」ではなくて、「霊魂の不滅を信ず」という言葉であったら、この国の多くの人にとっても、ずっと理解しやすかったと思います。実際、特に信仰を持っている人でなくても、「肉体は滅びても霊魂は生き続けている」と考える人は少なくないでしょう。

 実は、その点に関しては、初代教会の置かれていたギリシア・ローマ世界においても、今日の私たちと事情はさほど変わらなかったのです。霊魂が人間の本質であり、善なるものであり、不死であり不滅であるということは、多くの人々にとって、極めて自明のことだったのです。しかし、そのような人々の間で、なお教会は「我は霊魂の不滅を信ず」ではなくて、「我は体のよみがえりを信ず」という言葉をもって信仰を言い表してきたのです。そして、キリストが体をもって復活したことを、二千年もの長きに渡って伝えてきたのです。そこに私たちの希望もあると語ってきたのです。

 それはなぜなのか。――「体のよみがえり」という言葉でなければ、表現し伝えることができない信仰と希望の内容があるからなのです。

 「我は体のよみがえりを信ず」と言う場合、その「体」とは、他ならぬ、それぞれ固有の人生を生きてきた、この「体」に他なりません。キリストにおいても復活したのは、マリアから生まれ、十字架に至るまでの固有な人生を生きてきたその「体」です。私たちにおいてもそうです。目に見えるこの世界に関わり、目に見える他の人間に関わりながら、それゆえに多くの喜びと共に、時に多くの苦しみ悩みや悲しみを伴いながら、ある限られた年月を生きてきた「体」です。その「体」の復活について聖書は語っているのです。正確に言うならば、神によって「復活させられる」と聖書は語っているのです。そこに死ぬべき人間の救いを見ているのです。そこに死を越えた希望を見ているのです。

 それは確かに理解困難な事柄です。本日第二朗読ではコリントの信徒に宛てたパウロの手紙が読まれました。今日の聖書箇所の前には、「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」という問いが出て来ます。それに対して、パウロが言葉を尽くして体の復活について説明しています。しかし、それでもなお、ある意味ではよく分からない。死の克服については神の領域なのであって、人間の理解を越えた神秘です。

 しかし、それでもなおはっきりと語り得ることはあります。それがどのようなことであれ、神が「体」を復活させてくださるとするならば、その「体」は神にとって決して無意味なものではあり得ない、ということです。従って、その「体」をもって生きた一生もまた、神の御前に無意味なものではあり得ない。どのような傷が刻まれた一生であっても、その一生を生きてどのような傷が刻まれた体であっても、その体を神が栄光の体によみがえらせてくださるのです。それが神の国における出来事であり、神の最終的な救いなのだということを、弟子たちは見せていただいたのでしょう。

 イエス様はあの時、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言われたのです。釘の跡があるからです。それはまさに《十字架にかかって死んだあの体が復活したのだ》ということです。神を愛して、人を愛して生きて、それでもなお憎まれ、苦しめられ、裏切られ、見捨てられ、十字架に釘づけられて死んでいった、まさにその体が神によって復活させられたのです。神の国における栄光の姿に!その姿を弟子たちは見たのです。そのことを教会は伝えてきたのです。

 イエス様は救いが何であるか、希望が何であるかを見せてくださいました。この体が滅び、この体から解放され、苦難に満ちた人生から解放され、この世界との関わりから解放されるところに希望があるのではないのです。そこに救いがあるのではないのです。そうではなくて、私たちは、この体をもって為されたすべてが意味あるものとして生きるところ、体をもって為されたすべてが完成し、この一生が完成するところへと向かっているのです。そこでは私たちの体がかかわったすべてが生きるのです。苦しみも生きるのです。涙を流したことも生きるのです。悩み続けてきたことも生きるのです。何年も何年も病気で苦しむ人もいるのでしょう。その人生が終わると共にすべてが無に帰して、病気であったことも何の意味のなかったかのようにすべてが消え去って終わるのですか。いいえそうではないのです。病気で苦しんできたことも生きるのです。病気を耐え抜いた《その体が》神の国に復活するのです。すべてが生きるのです。何一つ無駄に地に落ちることはない。イエス様においては、十字架におかかりになったことさえも生きたではありませんか。すべてが生きて私たちは栄光の姿へと変えられる。私たちはそこに向かっているのです。

永遠の傷跡によって
 そして、最後に一つのことに目を向けて終えたいと思います。これまでキリストの体の復活と私たちの体の復活を同列に並べて語ってきました。それは決して間違いではないのです。今日の第二朗読で読まれたパウロの手紙でもそのように語られていますから。しかし、そのことに違和感を覚えながら聞いておられた方があるならば、ある意味では健全だと思います。というのも、キリストの体と私たちの体は決定的に異なるからです。

 あの御方の体はただ神と人とを愛するために用いられた体であり、そのために捧げられた一生でした。私たちの体はそうではありません。私たちの体はただ悩みや苦しみを負ってきた体であるだけではありません。私たちの体は、神に背くことを行い、人を傷つけ、苦しめてきた体なのです。そのような一生なのです。そのような体やその体が営んできた一生を、キリストと同列に扱えるはずがありません。本来ならば、キリストの復活は、単純に私たちの復活の希望に結びつくはずがないのです。

 だからこそ、キリストの復活が「体のよみがえり」であることに、今一度しっかり目を向ける必要があるのです。キリストは復活して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言われたのです。十字架の釘の跡を示して、「まさしくわたしだ」と言われたのです。そこにあった傷跡は、ただ私たちと同じ一人の人間として、苦しみを負って死んでいったことを示しているだけではないのです。あの傷跡は、私たちを救うために来られたメシアとして、私たちの罪を贖う犠牲として、確かに十字架の上で死なれたその体であることを示しているのです。その体が、神によって復活させられたのです。それはすなわち、その御方による罪の贖いが完全に成し遂げられたことを意味するのです。

 復活されたキリストの体には、傷跡がありました。復活された体になおも残された傷跡ですから、それは永遠に残る傷跡です。私たちの罪が赦され救われるために、イエス様は永遠に手と足に傷跡を持つ御方となられました。私たちが「体のよみがえりを信ず」と喜びをもって言い表すことのできる唯一の根拠がそこにあります。キリストの十字架による「罪の赦し」こそが根拠なのです。

 手と足に傷を持つ御方のゆえに、私たちは罪の赦しにあずかり、なおもこの体をもって生きていくのです。罪の赦しが与えられているからこそ、この体をもって共に主を礼拝し、この体をもって世に遣わされ、この体をもってこの世界にかかわり、人と人とのかかわりの中に生きていくのです。今この時を生きているこの体こそが、やがて復活せられる体です。この体をもって、私たちはすべてが生かされる復活の時、救いの完成の時へと向かっているのです。キリストは体をもって復活されました。それゆえに、私たちは今日も共に私たち自身について信仰を言い表します。「体のよみがえりを信ず」と。


(祈り)

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