2017年3月5日日曜日

「神の言葉によって生きる」

2017年3月5
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 4章1節~11節

 3月1日は「灰の水曜日」と呼ばれる特別な日でした。レント(受難節)の最初の日です。灰の水曜日から始まってレントの期間はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間のレントに入りまして最初の主日に与えられていますのが、イエス様が40日間荒野で断食したという話です。その荒野においてイエス様が悪魔から誘惑を受けられました。このレントの期間、まず私たちに語りかけられていますテーマは「誘惑」についてです。このテーマはここにいる私たち全ての人に関わっています。「誘惑」に無関係な人間などいないからです。

「誘惑」について
 そのような「誘惑」について、今日の箇所には少なくとも四つのことが語られています。

 第一に、誘惑を受けること自体は罪ではない、ということです。言い換えるならば、誘惑を受けることと罪を犯すことは別のこととして区別されなくてはならない、ということです。今日の箇所ではキリストが誘惑を受けているのです。そして、もう一方において聖書は繰り返し、キリストは罪を犯さなかった、と語っているのです。

 ヘブライ人への手紙にも、キリストについてこう書かれています。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。この「試練に遭う」という言葉は、今日の聖書箇所に出て来た「誘惑を受ける」という言葉と同じ言葉です。

 キリストはわたしたちと同様に試練を受けられ誘惑を受けられましたが、罪を犯しませんでした。宗教改革者マルティン・ルターがこんなことを言っていました。「あなたは頭の上の空を鳥が飛ぶのを妨げることはできない。しかし、髪の毛に巣をつくることを防ぐことはできる。」鳥が頭の上を飛ぶことと、巣をつくらせることとは別のことです。誘惑を受けることと罪を犯すことは別のことです。

 また、キリストが洗礼を受けた話の直後に悪魔から誘惑を受けた話が続いていることは注目に値します。洗礼の時にキリストは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。今日の箇所で悪魔は言います、「神の子なら」と。

 「誘惑」につい語られている第二のことは、神の子であるゆえに受ける誘惑がある、ということです。信仰者となったら、洗礼を受けたら、誘惑を受けることはなくなるか。あるいはせめて少なくなるのか。――そんなことはありません。私たちが神を天の父と呼んで生き始めるならば、神の子供として生き始めるならば、悪魔にとっては敵になるでしょう。悪魔に憎まれることになるでしょう。だからこそ、主は弟子たちにそのことに関する祈りを教えられたのです。「天におられるわたしたちの父よ、…わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。「悪い者」とは悪魔のことです。ご存じ、「主の祈り」の六番目の祈りです。神を「天におられるわたしたちの父」として祈るなら、絶対に必要な祈りです。

 しかし、悪魔が私たちを憎んでいるとしても、必ずしも苦しみや災いを持ってくると思ってはなりません。いや、むしろ悪魔は親切な顔をしてやってくるのです。今日の箇所もそうでしょう。悪魔は、空腹に苦しむイエス様に助言を持ってきたのです。

 「誘惑」について語られている第三のことは、「誘惑」はしばしば「助け」の顔をしてやってくるということです。悪魔はしばしば助言を持ってくるのです。窮乏を切り抜ける助言、必要が満たされるためのアドバイスを持ってくるのです。「こうすればあなたの今の窮乏は切り抜けられるよ。そのためにあなたの持っている力を使いなさい。できるでしょう」と。

 そうです、そのように「誘惑」は力のあるところに働くのです。それが「誘惑」について語られている第四のことです。誘惑は弱い部分に働くのではなく、むしろ人間の強い部分に働くのです。どうですか。皆さんに「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑が来ると思いますか。思わないでしょう。そのような誘惑は来ない。なぜならできないからです。できないところには誘惑は働きません。

 しかし、他のことだったら私たちにもできるかも知れません。自分の窮乏を救うために、あるいは誰かの窮乏を救うためにできることがあるかもしれない。その力がある時に、神の望むとおりにその力を使うのではなく、悪魔の望むとおりにその力を使わせようとする誘惑は働くのです。できるからこそ人は罪を犯すのであり、できるからこそ罪への誘惑が働くのです。

神の言葉から引き離す誘惑
 さて、今日の箇所にはイエス様が三つの誘惑を受けたことが書かれていますが、今日は特にその第一の誘惑に注目したいと思います。3節をもう一度お読みします。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」(3節)。

 それにしても、不思議な話です。「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」がどうして「誘惑」なのでしょう。空腹であるならばパンを盗んできなさい、という話ならなるほど誰が聞いても悪魔の誘惑らしいと言えます。先ほど、できるからこそ罪への誘惑が働くと申しました。例えば、「自分の能力や立場を利用して、たとえ不正な手段であっても窮乏を救え」という言葉なら、なるほど「悪魔の誘惑」らしいと言えるでしょう。「誰かを踏みつけてでも自分の必要を満たせ」と言うならば、どう見ても悪魔の望むとおりに自分の力を使わせようとする誘惑だと言うことができます。しかし、イエス様が石をパンになるように命じることは、どう見ても不正な手段云々の話ではありません。他者を害するものでもなさそうです。どうしてこれが誘惑なのでしょうか。

 この誘惑の意味を理解するには、誘惑する者を退けるイエス様の言葉から考えるのがよいと思います。主は次のような言葉をもって悪魔を退けられたのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)と。

 このイエス様の言葉から考えますと、この悪魔の誘惑は「人をパンだけで生きるものにしてしまう」という誘惑であるようです。それはまた「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ところから引き離してしまう誘惑であると言えるでしょう。要するに、そのような神との生ける関係から引き離してしまう誘惑です。

 そもそも「誘惑」と言いますと、すぐに連想されるのは犯罪への誘惑や、不正や不道徳への誘惑でしょう。しかし、悪魔のねらいはどうもそのような表面的なことにあるのではなさそうです。もっと深いところにある。もっと根源的な問題へと誘って行くのです。

 それは何か。神とその言葉から引き離すことです。「神の言葉によって生きる」という神との生きた交わりから引き離すことなのです。そのようにして神から引き離し、まことの命から引き離すことなのです。

 あえて言うならば、悪魔にとっては私たちが法律にひっかかる罪を犯すかどうかはどうでも良いことなのです。刑務所に入るようなことをするかどうかは、どうでもよいことなのです。悪魔にとっては人間を神から引き離してしまえれば、それで良いのです。神とその言葉から引き離すことができれば、それでよいのです。

 実際、そのような誘惑は今も私たちの間に働いているではありませんか。不正を行ったわけではない。誰かを傷つけたわけでもない。この世的に見ても不道徳を咎められるようなことをしたわけではない。窮乏の救いをただひたすら求めてそれを得ただけ。自らの必要を満たしただけ。空腹だからパンを求めてパンを得ただけ。そのような場合、それ自体はいかなる悪とも見えません。しかし、「パンさえ得られればよいのだ」としか思っていなければ、そして、神を求めることもその手段でしかないならば、窮乏が解決された途端に、もはや神を求めることもなく、神の御言葉を求めることもなくなってしまうことは起こりえます。神との交わりなんてどうでも良くなってしまって、神を天の父と呼ぶことも礼拝することもなく歩み始めてしまう。そのようなことはいくらでも起こると思いませんか。そうなれば、悪魔は誘惑に成功したことになるのでしょう。

人は神の言葉で生きる
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。窮乏を解決するパンが与えられるならば、それは本来、神との関係を深めるものとならなくてはならないのです。それは神の言葉によって生きる生活を確かにするものとならなくてはならないのです。そのことをイエス様の言葉は示しているのです。

 イエス様が誘惑を退ける時に用いた言葉は旧約聖書の申命記からの引用です。もとの聖書箇所には次のように書かれています。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:2‐3)。

 もとになっているのは、イスラエルが荒れ野を旅していた時の話です。荒れ野で食料が無くなり、彼らが飢えた。その時に、神は「マナ」という食べ物を与えてくださったのです。しかし、それはただ単に彼らを空腹から救うためではありませんでした。「マナ」が与えられたのは、彼らが神への信頼と従順に生きるようになるためだったのです。ですから、神様はマナを集めることについて条件を与えられました。「毎日必要な分だけ集める」ということでした。二日分集めてはならないのです。ただし、安息日の前日だけは二日分集めてよい。その代わり、安息日には集めようとしてはならない。それが条件でした。

 「明日の分まで集めてはならない」ということは、要するに、「明日のことは神に信頼し、今日を神に従順に生きる」ということでしょう。そのようにして、窮乏から救われた今もなお、いや窮乏から救われた今だからこそ、いよいよ神に信頼し、神に従順に生きていくわけでしょう。しかし、実際にはそうならなかった。イスラエルの人たちは、二日分集めたり、安息日に集めたりしたのです。

 ここに書かれている第一の誘惑というのは、実は、旧約聖書においてイスラエルの民が繰り返し陥ってきた誘惑に他ならないのです。そしてまた、私たちが陥ってきた誘惑に他なりません。そこにイエス様は人間として身を置いてくださっているのです。そして、主はその誘惑に打ち勝ってくださった。私たちに代わって悪魔に宣言してくださっているのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と。

 そのようなイエス様と共に生きるように私たちは招かれているのです。この主の御言葉が読まれる受難節のこの時、私たちは神の言葉によって生きる生活へと立ち帰り、悪魔に打ち勝ちたもう主に従って行くようにと招かれているのです。

以前の記事