日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編 23章1節~6節
今日は先に天に召された方々を記念して礼拝をお捧げするためにここに集まりました。今年は初めてご出席のお返事をいただいた御遺族のために「御遺族席」を用意しました。すると礼拝堂の半分は遺族席になりました。これはある意味ではとても嬉しいことです。天に召された方々のご家族がそれだけ大勢、この礼拝のためにお集まりくださったということですから。
先に召された方々も、ご家族の皆さんが今この礼拝の場に身を置いているのを見て、主と共に喜んでおられることと思います。中にはそれらの方々が地上にある時には、一緒に礼拝を捧げる機会を得なかったご家族もあるのでしょう。あるいは、故人が召された時にはまだ小さかった、お孫さん、ひ孫さんもこの中にはおられるのでしょう。そのお一人お一人が、今、この礼拝の場に一緒にいるということは、天においてどれほど大きな喜びをもたらしていることかと思います。
ここは天と地が一つとなるところです。天に召された方々も、今、ここにいる私たちも同じ神様を仰ぎ、同じ神様を礼拝しているとはそういうことです。その意味で礼拝堂とは天と地が一つとなるところなのです。今日お集いになられた方々は、その意味において、先に召された方々と一緒にいるのだという思いをもって、この礼拝の時をお過ごしいただけたらと思います。
わたしには欠けることがない
さて、そのような今年の記念礼拝において読まれましたのは、詩編23編の言葉です。もう一度、1節から3節までをお読みします。
賛歌。ダビデの詩。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
(23・1‐3a)
「ダビデの詩」いう表題が付けられています。ダビデ本人が作った歌かもしれませんし、あるいはダビデを思いながら後の人が作った歌であるかもしれません。しかし、ダビデにせよ、他の誰かにせよ、明らかにこれはその人の若い日の歌ではありません。内容からすると、むしろ長い人生を歩んできた人のその晩年における歌であると察せられます。
この詩は、神様を羊飼いとして、そして自分をその羊飼いに養われる羊として歌ったものです。しかし、人生の夕暮れにさしかかった時、この人が歌ったのは、「わたしはここまで真面目な羊として羊飼いに立派に従ってきました」という歌ではありませんでした。そうではなくて、「良き羊飼いのもとにいて、わたしは幸せな羊でした」と言って喜んでいる歌です。
それにしても「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という言葉は不思議な言葉でもあります。人は生きていれば、「欠け」を経験することはいくらでもあるからです。不足する。乏しさを覚える。何かを失っていく。何かが奪われていく。そのようなことが人生の途上でいくらでも起こります。ある意味で、一つ一つを失いながら生きていくのが人生だとも言えます。親を失い、友人を失い、自分の健康を失っていく。できたことができなくなっていく。そして、最後はこの地上の命を失うことになる。
失っていくものに目を留めれば、確かにそうです。失ったものを思えば乏しさを覚えることはある。欠けを覚えることはあるのでしょう。しかし、この人はそう言わない。今与えられているものに目を留めるのです。与えてくださっている御方に目を留めるのです。一緒にいてくれる羊飼いのことを考えているのです。「主は羊飼い」。そして、それで十分なのです。「わたしには何も欠けることがない」と。
死の陰の谷を行くときも
そして、続く3節と4節にはこう書かれています。
主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
(23・3b‐4)
ここで一つの変化が起こっていることに気づきます。これまで「主は羊飼い」「主はわたしを青草の原に休ませ」「主は…正しい道に導かれる」と語ってきたのですが、いつしか「あなたが…」と神様に向かって語り始めるのです。「あなたがわたしと共にいてくださる」「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」と。
「主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる」。そう語った時、彼は神様がこれまでどのような道を導いてくださったのか、改めて思い起こし、思い巡らしたことでしょう。それは必ずしも平坦な道ではなかったに違いありません。「死の陰の谷を行くときも」と彼は言っていますから。実際にこの人は「死の陰の谷」を行くような経験をしてきたのでしょう。
ならば、そのようなこれまでの人生を思い起こし、「死の陰の谷を行く」ときについて語る時に、「あなたが」という言葉が口をついて出て来たとしても不思議ではありません。なぜなら、彼は「死の陰の谷」を行く時に、そこで繰り返し繰り返し神様を呼び求めながら、神様に呼びかけながら、神様に祈りながら生きてきたに違いないからです。確かにその人は「わたし」と「あなた」という関係において神と共に生きてきた。「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」とはそういう言葉です。
ある程度長く生きていれば「死の陰の谷」を通ることは人生において避けられないことなのかもしれません。さらに言うならば、人は必ずその人生の最後には、本当の意味で「死の陰の谷」を行くことになるのでしょう。その時に共にいてくださる羊飼いに向かって、「あなたがわたしと共にいてくださる」と呼びかけることのできる人は幸いです。
実際、ここを読みながら、そのようにして最後の「死の陰の谷」を通って行った人たちの姿が思い起こされます。また、「死の陰の谷」を行く中で、そこで初めて羊飼いに向かって語り始めた幾人かの方々の姿を思い出すのです。そう、彼らは決して一人ではありませんでした。
わたしを苦しめる者を前にしても
そして、「あなたは」と言って彼が向き合っている神様の姿がここで変わっていきます。羊飼いから家の主人に変わっていくのです。それもまた彼が知ってきた神様の姿です。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
(23・5)
そこには敵によって苦しめられている者を受け入れ、豊かにもてなしてくれる家の主人がいます。彼は苦しめる者のただ中にある。それは変わらない。しかし、そのような苦しい現実のただ中にあって、そこで家の主人として豊かにもてなし、力づけ、喜びに満たしてくださる神様について語られているのです。
私たちはそこでもしかしたら、言いたくなるかも知れません。「神様、食事どころではありません。敵に囲まれているのですから。苦しめられているのですから。彼らを追い払うか、私を安全なところへ逃がしてください。」しかし、神様は必ずしもただちにそうしてくださるとは限らない。この詩編に描き出されている神様は、あたかもこう言っておられるかのようです。「いや、まずあなたは豊かな霊の食事に与りなさい。今いるそこで力を得なさい。そこで喜びを得なさい。元気になりなさい。私がそうしてあげよう。」
これこそ死の陰の谷を行くときも「あなたが共にいてくださる」と言っていたこの人が、人生において繰り返し経験してきたことであったに違いありません。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる」と。
主の家に帰ろう
そして、彼はこの詩編をこう締めくくります。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
(23・6)
良き羊飼いと共にある羊の幸いなることを歌ってきた彼は、帰るべきところ、とどまるべきところについて語ります。それは「主の家」です。それは「神殿」を意味します。それは共に礼拝する場所です。まさに「あなたがわたしと共にいてくださる」と言える場所、そして主御自身が食卓を整えてくださる場所。そう、私たちもまた今、そこに身を置いているのです。ここは天に召された皆さんのご家族が、繰り返し繰り返し帰ってきて身を置いていた場所です。
そして、それは永遠なる神の世界とつながっているのです。この地上の「主の家」はあくまでもひな形に過ぎません。その実体は天にあります。私たちには帰るべきところがあるのです。
6節の後半にある「生涯」という言葉は、しばしば「永遠に」と訳される言葉です。帰るべきところ。それは永遠に主と共に住まう主の家です。この人生において慈しみ深く導き続け、養い続けてくださった方のもとに私たちはやがて帰っていきます。そして、永遠にそのお方と住まうのです。
私たちは既に召された方々を記念して礼拝していますが、私たちもまたやがて彼らの列に加えられることになります。やがて終わりの来る一生。残された人生において「何をするか」ということも大切ではありますが、どこに目を向けて生きているかということはもっと大切なことでしょう。導かれるべきお方に導かれ、帰るべきところに向かっていてこそ、私たちの限られた人生もまた永遠の意味を持つのです。