日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 1章1節~9節
喜びをもって生きる
今日共にお読みしましたのはペトロの手紙です。冒頭にありますように、これはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ベティニアの各地にある諸教会に宛てられた回覧状です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙の読者は様々な苦しみの中にあったことが分かります。具体的には迫害の苦しみの中にあったということでしょう。彼らは、キリスト者であるというだけで、非難や中傷、不当な扱いを耐え忍ばねばなりませんでした。そのような人々を励まし、適切な指示を与えるために、この手紙は書かれたのです。
しかし、そのように苦しみの中にある人々に書かれた手紙であるにもかかわらず、その文面からは暗く重苦しいものは全く伝わってきません。むしろ伝わってくるのは底抜けた明るさです。ペトロは苦しみの中にある人々に「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)と書き送るのです。さらに彼はこう書いています。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」(6節)。そして、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(8節)と書いているのです。
これは私たちに何を示していますか。苦しみの中にあってもなお人は喜びを持って生きることはできるということです。人は置かれている環境や境遇によってどう生きるかを決められる必要はないということです。他の人が何を言うか、他の人が何をしてくるか、そんなことで私たちは暗い人生を強いられる必要はないということです。他の人が何をしようが、何が起ころうが、人は喜びを持って輝いて生きることができるのです。
生き生きとした希望
ではどうしたら、そのように喜びを持って生きられるのでしょう。彼らが持っていたのは何だったのでしょう。それは希望です。新共同訳の小見出しにもなっている「生き生きとした希望」です。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(3‐4節)。これが彼らの喜びの源なのです。
「生き生きとした希望」というのは「生きている希望」という言葉です。味わい深い表現でしょう。わざわざ「生きている希望」と書かれていることは、もう一方において「生きていない希望」「死んだ希望」もあるということです。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方には命があり、もう一方には命がありません。希望が真の命を伴っていなければやがて枯れて消えていきます。そのような、やがて枯れてしまう希望は、私たちの周りにいくらでもあります。そのような希望によって、幾度となく浮き沈みを繰り返してきた人は少なくないのではありませんか。
枯れない希望。命ある希望。生きている希望。失われない希望。それはどこから来るのか。今日の聖書箇所に「生き生きとした希望を与え」と書いてありました。誰が与えてくれたのか。神です。生きている希望は神から来るのです。それはこれを書いているペトロの体験でもあったのです。
皆さんもご存じのように、ペトロはイエス・キリストが捕らえられた時、三度もキリストを「知らない」と言った男です。キリストが十字架にかけられた時、主を見捨てて逃げてしまっていた、そういう男です。キリストが葬られた後も、自分が同じ目に遭わされるのではないかと、家の中に閉じこもり、戸を閉ざしてビクビクしていた男です。――取り返しのつかないことをしてしまったという罪責感。自分の弱さや醜さに対する深い絶望。彼にとって、あの日、彼の人生は終わったのです。全ては終わったのです。それでもなお呼吸を続けるならば、あとは生ける屍として惰性で生きていくしかなかった。その先に何も待ち望むものを持たないまま、生きていくしかなかったのです。すべては終わったのですから。
ペトロ。そんなペトロが、どうして再び立ち上がり、前を向いて希望をもって生きるようになったのか。未来に向かって歩み始めることができたのか。それはペトロにとって終わりであっても神にとっては終わりではなかったからです。そうです。人間にとってピリオドであっても、神にとっては一つのカンマに過ぎないのです。神はその事実をはっきりと現してくださいました。何によって。イエス・キリストの復活によって。ですからペトロはこう表現しているのです。「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(3節)。
「死者の中からのイエス・キリストの復活」とは何ですか。人間にとっては決定的な「終わり」である「死」でさえも、神にとって「終わり」ではないということです。その先へと続くのです。いや、むしろそこから始まるのです。神は終わりを始まりにすることのできる御方なのです。そのように、ペトロの人生も絶望の中で終わったところから、新しく始まったのです。ただ神によって。そして、そのように生き生きとした希望を与えられたのはペトロだけではなかったのです。だからこのことが書き記され、読まれ、今日に至るまで伝えられているのでしょう。今もなお、ここにいる私たちにも、その生き生きとした希望、死によってさえも失われない希望は差し出されているのです。
そして、死によってさえも失われない希望があるということは、言い換えるならば、死によって失われない未来があるということです。一般的にはどうですか。死によって未来が失われるのでしょう。死は未来を奪うのでしょう。元気に生きていた人が死を宣告されるということは、未来を失うということではありませんか。高齢になり、あるいは病気になり、死が近づいてくるということは、一般的に言うならば、未来を失っていくということではありませんか。しかし、そうではないと聖書は言うのです。死によって奪われない未来があるのです。それをペトロは次のように表現しているのです。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(4節)。
死の先は私たちの想像を超えた未来です。ですから、ある意味で「財産」という陳腐な言葉をもってしか表現できない。そのように、私たちには思い描くことさえできないわけですが、財産を受け継ぐというのですから、喜ばしい未来であることに間違いはありません。
そのように、人は死においてもなお、その先に喜ばしき未来を待ち望むことができるのです。死の床においてもなお、期待をもって最後まで生きることができるのです。実際、皆さんは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができるのではありませんか。そうです、人は人生最後の一秒に至るまで、最後の一呼吸に至るまで、期待に胸を膨らませて、未来を待ち望みながら生きることができるのです。最後まで喜びをもって生きることができる。輝いて生きることができる。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったからです。
わたしたちを新たに生まれさせ
しかし、そのように生き生きとした希望に生きるために、なお大事なもう一つのことがあります。今、神が「生き生きとした希望」を与えてくださった、と言いました。生きている希望は神から来る。ならば人生において決定的に重要なことは、その神との関係がどうなっているかということです。もし神との関係が悪いままであるならば、人は喜ばしき未来を期待できるでしょうか。最終的に人生最後の時にも、死の向こう側になお喜ばしき未来を期待できるでしょうか。できないだろうと思うのです。大事なのは神との関係なのです。神との関係が悪ければ、神がおられることは希望につながらないのです。そのままでは「生き生きとした希望」に生きることができないのです。
だからこそ、神はこの世にキリストを遣わされたのです。私たちと神との関係を良くするためです。どのようにして、関係を良くするのでしょう。独り子なるイエス・キリストを十字架におかけになり、私たちの罪の贖いとすることによってです。神の側から私たちに対して、罪の赦しを宣言することによってです。そのようにして、神に愛されている子どもとして私たちが新しく生きることができるようにしてくださったのです。親子の関係という、この上ない良い関係に生きられるようにしてくださったのです。
それを聖書はこのように表現しているのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」(3節)。そのように、どんな人であっても、新しく生まれた神の子どもとして生き始めることができるのです。これまでがどうであったかが問題ではないのです。いつでも大事なのはこれからどう生きるのかです。「生まれる」とはそういうことでしょう。そこからがスタートなのです。人は神の子どもとして生き始めることができるのです。それはまさに福音です。良き知らせです。
神との関係がそのような親子関係であるならば、もう安心です。たとえ今がどんなに暗くとも、大丈夫です。良き親なる神が関わってくださるならば、いつでも未来に期待を抱き続けることができるからです。私たちは、人生最後の時に至るまで、良き未来を待ち望み、生き生きとした希望に生きることができるのです。良き未来を待ち望む喜びをもって生きることができるのです。苦しみの中にあってもなお人は喜びを持って生きることはできます。暗闇の中にあっても人は輝いて生きることはできます。置かれている環境や境遇によって人生を決められる必要はありません。他の人が何を言うか、他の人が何をしてくるか、そんなことで私たちは暗い人生を強いられる必要はありません。神を見上げ、信仰によって神の子どもとして希望をもって生きることができるのです。