2013年8月18日日曜日

「希望にあふれて」

2013年8月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ハバクク書3:17~19、ローマの信徒への手紙8:18~25

  「いちじくの木に花は咲かず、ふどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる」(3:17)。今日お読みした聖書箇所に書かれていました災いの描写です。しかも、これは文脈からすると他国の襲来による災いの描写なのです。そのような時、人は悲しみ、落胆し、嘆き、あるいは怒るのでしょう。しかし、この人はこう続けるのです。「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」(3:18‐19)。この人は羊や牛を奪われても、喜びを奪われないのです。田畑の収穫を失っても、生きる力を失わないのです。彼はこれがすべての結末だとは思っていないからです。彼はなおも前を向いて、待ち望む者として生きているのです。

主よ、なぜですか
 しかし、初めからそうだったわけではありません。この書の冒頭にまで遡ってみましょう。この書は喜びの歌声ではなく、神に対する嘆きと訴えの言葉から始まります。「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。どうして、あなたはわたしに災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」(1:2-4)。

 紀元前7世紀にユダの国にヨシヤという王がいました。ヨシヤ王については、聖書が次のように語っています。「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」(列王記下23:25)。そのヨシヤの時代に、神殿からモーセの律法の書が発見されました。ヨシヤ王は、その書を読み、悔い改め、主に立ち帰ります。彼は律法の書に従い、宗教改革を断行しました。国家全体が主に立ち帰るためでした。この事は国内に良き秩序を回復しました。正義が回復されつつありました。世を憂いていた人々は皆、ヨシヤの改革に期待していました。輝かしい時代の到来を信じていました。しかし、そのヨシヤが志半ばにして戦死してしまったのです。ひとつの時代が終わりました。崩壊が始まりました。そしてハバククの時代には、すでに国家は秩序を失い、ここの書の冒頭に記されているような惨状だったのです。

 なぜ暴虐と不法が許されているのか。なぜヨシヤの改革によって理想国家が誕生しなかったのか。なぜ中途でヨシヤが戦死してしまったのか。なぜ神はこのような状態を放っておかれるのか。なぜ沈黙しておられるのか。不可解な現実を前にして、ある人は神に背を向けるのでしょう。しかし、彼は神に背を向けなかった。神に向き続け、神に問い続けるのです。神にしがみつくようにして「なぜ」と問い続けるのです。

 問い続けるハバククに主は答えられました。そして、神の答えはハバククのまったく予期していなかったものでした。主は言われるのです。「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する。彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから、裁きと支配が出る」(1:6-7)。

 カルデア人とは当時にわかに勢力を強めてきたバビロニア帝国のことです。オリエントの覇権がアッシリアからエジプトへ、さらにバビロニアへと移っていった時代です。神はそのバビロニアが攻めてくると告げたのです。事実、その徴候は十分に見られました。国内の混乱に加えて外国の襲来。つまり、事態はさらに悪くなりつつあったのです。それが神のなさろうとしていたことだったのです。

 ハバククは神の言葉を受け止め、こう語ります。「主よ、あなたは永遠の昔から、わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため、彼らを立てられた」(1:12)

 ハバククはカルデア人の襲来を神の懲らしめとして理解しました。たしかに私たちは悔い改めなくてはならない。しかし、それにしてもまだ腑に落ちません。彼はこう続けます。「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら黙っておられるのですか、神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに。あなたは人間を海の魚のように、治める者もない、這うもののようにされました。彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ、網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び躍っています。それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ、投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得、食物に潤うからです。だからといって、彼らは絶えず容赦なく、諸国民を殺すために、剣を抜いてもよいのでしょうか」(1:13-17)

 「彼ら」とは「カルデア人」のことです。彼らはこんなに酷いことをしているではないか、とハバククは訴えるのです。つまり、こういうことです。確かにユダも不敬虔かも知れないが、カルデア人のほうがずっと不敬虔ではないか。カルデア人は随分残忍なことをしているではないか。そして、その残忍さのゆえに今や恐るべき勢力を誇っているのではないか。神を神としない、また人道をわきまえないカルデア人が、少なくとも彼らよりは正しいと思われるユダを懲らしめるために立てられるのはおかしいではないか。神の正義、神の清さはどうしてこれを許されるのか。ハバククには全くもって不可解なことでした。

 しかし、彼は祈ることをやめませんでした。目の前の出来事がいかに不可解であろうとも、彼は祈ることをやめないのです。むしろますます神に向かいます。彼はこう言うのです。「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」(2:1)。彼はどんなに苦しくとも神から顔を背けません。必死で神の語りかけを聞こうとします。神の御思いを知ろうとするのです。

信仰によって生きる
 そのようなハバククに主は答えられました。神様はひとつの幻を示されたのです。それは神御自身が決着をつけられる時についてです。それは、2章6節以下に見るように、バビロニア帝国が裁かれ、滅びるということでした。その幻について、主は言われるのです。「定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」(2:3)。繁栄を極めたバビロニア帝国が滅びることなど、とうてい考えられないことでした。しかし、主はその時が来ると言われたのです。たとえ、遅くなっても待っておれ、必ずその時が来るから、と言われるのです。

 さて、ハバククに対して主が語ってこられたことはいったい何でしょう。主はこう言われたのです。「それは終わりの時に向かって急ぐ」と。つまり、言い換えるならば「まだ終わりではない」ということです。今見ていることが結末ではないということです。その先がある。神が備えておられる先がある。人間が途中だけを見ると全く不可解なのだけれど、神御自身にとっては不可解ではないのであって、神にはその先に為そうとしておられることがあるのです。それは今は見えない。想像することもできないことかもしれない。しかし、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と主は言われる。それは人間の目には遅いように見えるかもしれないけれど、神の計画の中においては「手遅れ」になることはないのです。

 そこで、主はこう言われたのです。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」(2:4)。ここで神が言われる「信仰によって生きる」という意味は明確ではありませんか。どこまでも信頼して待ち望むことです。神に信頼して将来に目を向け、待ち望む。神の時を待ち望む。それがハバククの得た神の答えだったのです。

 最初に読んだ言葉は、そのように、信仰によって生きることを神より教えられた人の言葉です。彼は主に信頼して待ち望む。それゆえにまた、現在がどのような状態であったとしても、喜びをもってこう歌うのです。「いちじくの木に花は咲かず、ふどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」。

希望をもって待ち望む
 そして今日は「信仰によって生きる」ということを語り続けたもう一人の人の言葉をお読みしました。パウロはこう語っているのです。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマ8:18)

 「現在の苦しみ」。パウロはそこでまず自然界の苦しみを語っています。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(同8:22)。そうです、実際、私たちもまたうめき苦しんでいるこの自然界の姿を見ているのでしょう。そして、それをもたらしているのは人間の罪であるに違いないのだけれど、その人間もまた自然界の一部として苦しみうめいているわけです。それは「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」(同8:23)、すなわちキリスト者であっても例外ではありません。しかし、パウロはあくまでも「現在の苦しみ」と表現するのです。それは途中のことなのです。最終的な苦しみではないのです。その先に待ち望むべきものがある。神に信頼して、待ち望むのです。それを「将来わたしたちに現されるはずの栄光」とパウロは表現するのです。

 「現在の苦しみ」と言い、「将来の栄光」と言う。そのときにパウロの念頭に常にあったのはキリストの十字架と復活なのでしょう。ですから、その直前にもこう言っているのです。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(同17節)。十字架の苦しみは復活の栄光へと続いていたのです。先ほど自然界の苦しみについて引用した言葉にもこの信仰が現れていました。「共に産みの苦しみを味わっている」と書かれていました。読み過ごしてしまいそうな小さな言葉ですが、しかし、これは苦しみの意味を決定的に変える言葉でしょう。産みの苦しみは最終的な苦しみではないのです。その先に大きな喜びが待っているのです。いや、「その先に」は適切ではないかもしれません。それが産みの苦しみであることが分かっているならば、苦しみが始まった時に、既に喜びは始まっているとも言えるのでしょう。

 そのように、この世において体を持つ者として苦しみを免れない私たちであっても、神の栄光にあずかる救いの完成の時は将来であったとしても、その救いを待ち望む確かな希望に生きているならば、既に救われていると言うことができるのです。救いの喜びは既にそこにあるのですから。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」とパウロは苦しみの中にあって宣言するのです。


 私たちは神に信頼し、希望に生きる民とされました。しかも、キリストの十字架と復活によって信仰に導き入れられた私たちは、ハバククよりもさらに確かな希望をもって将来に目を向けることができるのです。彼は言っていました。「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」。私たちはさらに大きな希望に満ち溢れてそのように語りながら生きることができるのです。

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