2013年6月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 49章14節~21節
主はわたしを忘れられた
「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた、と」(14節)。
「主はわたしを見捨てられた」。そんな思いを抱いたことはありますか。「わたしの主はわたしを忘れられた」。そんな思いを抱いたことはありますか。苦しみが長く続く時、出口の見えないトンネルの中を延々とこれからもずっと歩き続けなくてはならないかのように感じる時、神に祈り願っても依然として事態は何も変ってはいないように思える時、私たちの内にもこのような思いが湧き上がってくるかもしれません。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」と。
シオンとはエルサレムのことです。この場合、破壊され廃墟となったエルサレムです。紀元前五八七年、エルサレムはネブカドネツァルの率いるバビロニア軍によって二年間包囲された後に陥落し、城壁は破壊され、エルサレムの神殿は焼き払われ、主だった人々はバビロンに強制移住せられて捕囚となりました。それから五十年近くの月日が経ち、依然としてエルサレムの城壁も神殿も建て直されることなく、都は廃墟のままだったのです。そのような月日を経た捕囚の民の口に上ったのがこの言葉でした。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。
確かに、見捨てられているとしか思えない時があります。忘れ去られているとしか思えない時があります。そこに罪の自覚が加われば、絶望はいよいよ深くなるのでしょう。捕囚の地にあって歴史を振り返った人々がいました。彼らに見えてきたのは、神が繰り返し預言者を遣わして語りかけ、呼びかけ続けてくださったという事実でした。そして、もう一つ見えてきたのは、その呼びかけに背を向け、耳を塞ぎ、逆らい続けてきた民の姿でした。見捨てられたとしても仕方がない。忘れられたとしても仕方がない。エルサレムの荒廃をもたらしたのは外交政策を誤ったゼデキヤ王でもなければ攻めて来たバビロンの王でもなかった。それは他ならぬ自分たちなのだ。それが彼らの自覚でした。そのように民の罪によって廃墟となり、荒れ果てたまま年月だけが過ぎていったエルサレムが、悔いと悲しみをもってこう嘆いているのです。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。そこにあるのは深い絶望の暗闇でした。
あなたを忘れることは決してない
しかし、その暗闇の中に主の御声が響くのです。「わたしがあなたを忘れることは決してない!」主はそう言われるのです。それは暗闇の中に天から差し込んでくる一筋の光です。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(15節)。
主が「忘れることはない」と言われる時、それは何を意味するのか。主はさらにこう言続けられます。「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある」(16節)。「刻みつける」という言葉は、レンガなどに絵や字を彫り込む時に使われる言葉です。そのようなことを手に対して行ったら、当然、痛みを伴うことになるでしょう。実際、ここで語られているのは、ある種の入れ墨のようなものだろうと多くの人は考えます。そのように痛みをもって手のひらに刻みつけ、「あなたを決して忘れない」と言われる。それは神の憐れみなのです。見捨てられても仕方のない者をあえて赦して受け入れる神の憐れみなのです。
そのように、見捨てられても仕方のない者をあえて赦して受け入れて「あなたを決して忘れない」と言われる神の憐れみを思う時、私たちもまた私たち自身のことを考えざるを得ません。私たちもその憐れみを知っています。私たちもそのようにして救われたからです。そのように痛みをもって刻まれた私たち自身の名前。そうです、神はキリストにおいて私たちをもその御手に刻まれました。十字架の太い釘をもって。その釘の跡はイエス様が復活されたあとも残っていました。その傷跡を主は復活した時にトマスにお見せになりました。それはトマスのための傷跡であり、他の弟子たちのための傷跡であり、私たちのための傷跡でした。いわばその御手に、穴のあいたその御手に、私たちもまた赦された者として彫り刻まれているのです。
「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」と主は言われた。だから忘れられてはいません。罪を赦された者として常に主の御前にいるのです。人の目には主から忘れられているかのように見えても、見捨てられているかのように見えても、主は宣言されるのです。「わたしがあなたを忘れることは決してない」と。主は常に覚えていてくださいます。主は心にかけていてくださいます。主は見ていてくださいます。主は長い間苦しんできたことも分かっていてくださいます。その上で、主は私たちの未来にしっかりと目を向けていてくださるのです。
あなたの城壁は常にわたしの前にある
主はあの時、自らの手に刻みつけたエルサレムに向かってこう言われました。「あなたの城壁は常にわたしの前にある」と。崩れてしまった城壁は常に主の前にありました。惨めなエルサレムの姿は主の前にありました。主は決してそっぽを向いていたわけではありません。しっかりと見ておられた。しかし、主がご覧になっていたのは、ただ崩れてしまった城壁だけではありませんでした。主は再建された城壁をも見ておられたのです。やがて美しく建て直される城壁。その再建プランは既に主の御手にあったのです。主は人がまだ見ていない再建された城壁を既に見ておられた。それゆえに主はさらにこう言われるのです。「あなたを破壊した者は速やかに来たが、あなたを建てる者は更に速やかに来る」(17節)。
「あなたを破壊した者は速やかに来た」。そうです。確かにそうでした。破壊されるのは速かった。それが建て直されるのには気が遠くなるほどの時間がかかると人は思います。これまでの苦しみの時が長ければ、その苦しみから解放されるのにも恐ろしく長い時間がかかるように思う。時にそれは永遠に続くとさえ思えるものです。しかし、主は言われるのです。「あなたを建てるものは更に速やかに来る」。なぜなら、それは主がなさることだからです。
主は人間の時間割に従って事を為されるわけではありません。主は御自分の仕方で事を為されます。主はある日、突然、人間の思いがけない仕方で介入されるのです。実際、エルサレムの再建はそのように起こりました。再建のための勅令を出したのは、なんとバビロンを征服したペルシャの王キュロスだったのです。そして城壁の再建を指導したネヘミヤもペルシャの王に仕える高官であり、ペルシャ帝国の公務としてエルサレム入りすることになるのです。
主は備えておられます
「あなたの城壁は常にわたしの前にある」。そのように、主は私たちの現実を見ていてくださいます。その主が私たちの未来をも見ていてくださいます。そこには主のご計画があるのです。そして、主がなそうとしておられることは、ただ「元通りになる」ということではありません。破壊されたエルサレムはただ元通りになるのではなく、それ以上のものとなるのです。
主はこう言われました。「 目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。わたしは生きている、と主は言われる。あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい、花嫁の帯のように結ぶであろう。破壊され、廃虚となり、荒れ果てたあなたの地は、彼らを住まわせるには狭くなる。あなたを征服した者は、遠くへ去った。 あなたが失ったと思った子らは再びあなたの耳に言うであろう、場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と」(18‐20節)。
廃墟となり人の住まなくなったエルサレムは、ただ元通りに人が住むようになるだけではありません。エルサレムは失った人々以上の人々が帰ってきて、入りきれないほどの人で賑わう繁栄した都になるというのです。人々は言うのです。「場所が狭すぎます」と。
そのようなことが起こるならば人は不思議に思うわけでしょう。ですから主はこう言われるのです。「あなたは心に言うであろう、誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか、わたしは子を失い、もはや子を産めない身で、捕らえられ、追放された者なのに、誰がこれらの子を育ててくれたのか、見よ、わたしはただひとり残されていたのに、この子らはどこにいたのか、と」(21節)。
誰が生んでくれたのか。誰が育ててくれたのか。もちろん神様です。神様が生んで育てておられたのです。いつですか。彼らが「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」と言っていた時にです。まだ再建の兆しも見えなかった時です。何も進んではいないように見えた時です。その時に、主は既に再建された城壁を見、そして、そこに住む人々を備えておられたのです。
「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。そのように見える時、そのように思えてくる時、ぜひ今日の御言葉を思い起こしてください。主は言われます。「わたしがあなたを忘れることは決してない」。私たちは主の手に彫り刻まれているのです。主は忘れてはおられません。主は私たちの現在を、そして未来を見ていてくださいます。そして、主は何も進んではいないように見える今、そのために着々と準備を進めておられるのです。
ならば大切なことはただ一つ。信仰に留まることです。エルサレムの言葉をもう一度聞いてみてください。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。「主は見捨てられた」と言いながらもなお「わたしの主は」と言っているのです。そうです、当時、主を捨ててバビロンの神々に帰依していく人たちがいる一方で、自らの罪を自覚しながらも、暗闇の中にあっても、どこまでも主に向こうとしていた人たちがいたのです。そのような人々が主の言葉を聞いたのです。「わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある」と。私たちもまた信仰に留まるならば、私たちへの語りかけとして主の言葉を聞くのです。暗闇の中に差し込む一筋の光として。「わたしがあなたを忘れることは決してない」。