マタイによる福音書 11:25‐30
休ませてあげよう
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。今日読まれました主の御言葉です。
「疲れた者」と書かれていました。これはもともと「労苦している者」という意味の言葉です。労苦を厭わず、力を尽くして頑張ってきました。しかし、重荷を負うつもりではあるものの、負うべきことは分かっているものの、もう疲れ果ててしまいました。ここに呼びかけられているのは、そのような意味での「疲れた者」です。
一方、「重荷を負う者」と書かれていますのは、正確には「重荷を負わされている者」という意味の言葉です。受け身で書かれているのです。自ら望んだわけではありません。自分が選んだわけでもない。しかし、否応なしに重荷を負わされました。そんな重荷というものが確かにあるものです。負わされた、強制されたと思えば思うほど辛くなる。「重荷を負う者、負わされている者」とはそういう人々です。
そのような「疲れた者、重荷を負う者」にイエス様は呼びかけておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。
考えてみれば驚くべき言葉です。「だれでもわたしのもとに来なさい」などと、普通は言わないし、言えません。しかも、原文では「《わたしが》休ませてあげよう」と、「わたし」が強調された形で書かれているのです。そのような言葉をイエス様は口にされるのです。そして、その言葉が残ったのです。
いい加減な言葉だったら残りません。現実と結び着いていなかったら残りません。この言葉が弟子たちの心に残って伝えられたということは、要するに「本当にそうだ」と弟子たちが思ったということでしょう。どんな重荷を負う人であっても、負わされている人であっても、この方のもとで休みを得ることができる。本当の安らぎを得ることができる、と。
そのように、この言葉は語っている「イエス・キリスト」という存在と切り離すことができないのです。この御方が言われるからこそ意味があるのです。では、イエス様はどうしてこのような言葉を口にすることができたのでしょう。
その直前にはこう書かれています。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(27節)。そこに言い表されているのは父と子の関係です。愛と信頼に満ちた父と子との交わりです。イエス様はそのような父との交わりの中にいる者として語っておられるのです。そのようなイエス様だからこそ語ることのできた言葉なのです。
父と子との交わり
「父のほかに子を知る者はない」と主は言われました。そこにはある意味でキリストの深い孤独が言い表されています。
多くの人々がイエス様を追い求め、集まってきたのでしょう。ある人々は病気を癒してくれるミラクル・ヒーラーを求めてイエスのもとに来ました。ある人々は政治的な解放者を求めてイエスのもとに集まってきました。近くには常に弟子たちがいました。しかし、主は言われるのです。「父のほかに子を知る者はない」。イエスを追い求める人々も、共に旅する弟子たちも、そこで語っている方が誰であるかを、本当の意味では知らない。イエス様は誰にも理解されなかったのです。「父のほかに子を知る者はない」。
その悲しみは、今日の聖書箇所ではありませんが、20節以下の主の言葉にも見ることができます。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない』」(20‐21節)。
数多くの奇跡が行われたのでしょう。多くの病人が癒されたに違いない。しかし、コラジンの人々もベトサイダの人々も、悔い改めて神に立ち帰ることはなかったのです。彼らに語っていたのは、父なる神からすべてのことを任された御子であることを、彼らは認めることはありませんでした。そこでイエス様が「叱った」と書かれていますが、内容は深い嘆きです。「お前は不幸だ」と、そう言わざるを得ないイエス様の嘆きです。また、そう言わざるを得ない時点で、イエス様のそれまでの宣教の労苦は無駄であったように見えなくもありません。
しかし、驚いたことに、そこでなお、イエス様は父なる神をたたえるのです。そこからが今日の聖書箇所です。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます』」と。これは信仰を告白するという意味の言葉でもあります。無駄に終わったように見える宣教の働きの中に、それでもなお父がなさっていることがある。御心に適うことが実現している。御子なるイエスは信頼に価する完全なる父を知るゆえに、この場面においても父をたたえるのです。
「父のほかに子を知る者はない」。現実には確かにそうなのです。そのような御子として、やがては人々に捨てられ、弟子たちにも逃げられ、十字架にかけられて死んでゆくことになるのです。しかし、それでもなお父には知られているのです。そして、その父を子もまた知っている。「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。そこに言い表されているのは、愛と信頼に満ちた父と子との交わりです。
そのような父と子との関わりに生きていたイエス様が言われるのです。そのようなイエス様だからこそこう言われるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)。
「休ませてあげよう」――どのようにして?自分がいるところに招くことによってです。天地の主である方を「父よ」と呼ぶ、その交わりの中に招くことによってです。イエス様御自身が休みを得ていた、その交わりの中に招くことによってです。だから「わたしのもとに来なさい」なのです。そのようにして、父を知るのは子だけではなくなるのです。「子が示そうと思う者」もまた父を知ることになるのです。
わたしの軛を負いなさい
そのように主は私たちをも招いてくださいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。そのようにして私たちはイエス様のもとに来て、「天にまします我らの父よ」と祈る集まりに身を置いているのです。
しかし、主は「休ませてあげよう」と言われたのであって、「重荷を取り去ってあげよう」とは言われませんでした。もちろん、「休ませてあげよう」には重荷を降ろすことも含まれてはいるのでしょう。私たちは主のもとに来て、降ろすことができる重荷はあります。少なくとも、罪の重荷は降ろすことができます。また主は私たちの思い煩いという重荷も降ろしなさいと語っていてくださいます。そのように私たちが降ろすことのできる重荷、降ろすべき重荷はあります。しかし、それでもなお負わなくてはならない荷物は残るのです。主は「休ませてあげよう」と言われたのです。
それゆえに主は「休ませてあげよう」と言われた後、さらにこう続けるのです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(29‐30節)。そこでは負うべき軛について語られ、担うべき荷物について語られています。
「軛」とは二頭の牛をつなげる道具です。同じくびきを負った二頭は共に荷を負い、共に働くことになるのです。そのようにイエス様は「わたしの軛を負いなさい」と言われるのです。イエス様のもとに来て、父との交わりに入れられた人は、そこでイエス様と同じくびきを負って歩き出すのです。そこではイエス様への従順が求められます。軛でつながれているのですから。そして、そこにはまた担うべき荷物についても語られています。軛を負った者が主と共に」担うべき荷物です。それをイエス様は「わたしの荷」と呼ばれました。
現実には、今まで負ってきた重荷と同じものかもしれません。自ら負ったか、それとも自分の意志とは関係なく負わされたか、いずれにせよ、同じ重荷をこれからも負っていくことになるのかもしれません。しかし、主のもとに来た者にとっては、主によって休ませていただいた者にとっては、意味合いが全く違ってくるのです。それは主につながれている者として、主に学ぶものとして、主と共に負っていく荷物、主が「わたしの荷」と呼ばれる荷物となるのです。
主は言われました。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(30節)。負っているのは主の軛だから、そして担っているのは主の荷物だから、そこからまた背負って歩み出すことができるのでしょう。主の言葉が真実であることを代々の信仰者は経験してきたのです。だから私たちにも伝えられているのです。同じ御言葉が、ここにいる私たちにも語られているのです。
(祈り)