2021年5月2日日曜日

「道・真理・命」

ヨハネによる福音書 14:1-11

心を騒がせるな
 「心を騒がせるな」と主は言われます。それは人間がしばしば平安を失い、心を騒がせることを知っておられるからでしょう。そして、まさにその時弟子たちはそのような状態にあったのです。

 主がそう言われたのは、最後の晩餐の席においてでした。イエス様は御自分の死が目前に迫っていることを知っておられました。御自分が間もなく捉えられ、鞭打たれ、十字架にかけられることを知っておられました。今日読まれました聖書箇所の直前にはペトロとのこんなやり取りが記されています。

 イエス様がペトロに言われました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」。イエス様は十字架に向かっているのです。そこにペトロは、今はついて行くことはできないと主は言われたのです。しかし、ペトロにはイエス様が言っておられる意味が分かりません。しかし、命に関わることを主が言っておられることだけは分かったのでしょう。ペトロは言いました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13:37)。

 ペトロがそう言わざるを得ないほどに、イエスの身に、そして弟子たちの身に、命の危険が迫っていることを彼らは感じ取っていたのでしょう。そもそも、その覚悟でエルサレムに来たのです。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)とトマスも言っていたようにです。そのように確かに死の力が彼らに押し迫ってきているのです。そのような時に、彼らの心が騒いだとしても無理ありません。

 それは私たちにもよく分かります。最終的に人間は死の力に勝てないことを私たちは知っていますから。いかなる人間も、どんなに富んでいようが、どんなに力があろうが、人間は死の力には勝てない。だから死がその片鱗を現す時に、そして、最終的に押し迫ってくる時に、心が騒ぐのを抑えることは難しい。

 しかし、主は言われるのです。「心を騒がせるな」と。それは「心を騒がせる必要はない」ということでもあります。それはどうしてか。弟子たちは既に誰を信じたら良いかを知らされているからです。イエス様と共に歩んだ三年半の日々において、弟子たちは繰り返しイエス様が言われるのを聞いてきたはずです。「神を信じなさい」と。そして、多くの人々に主がこう語るのを聞いてきたはずなのです。「あなたの信仰があなたを救った!」と。

 イエス様は今一度、最後の晩餐において、そのことを思い起こさせるのです。主は言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。「神を信じなさい」だけではありません。「わたしをも信じなさい」と主は言われるのです。まもなく捕らえられることを知っている主が、十字架にかけられて殺されることを知っている主が言われるのです。自分の無残な死に様を見ることになる弟子たちに、それでもなおイエス様は言われるのです。「わたしを信じなさい」と。原文では継続を表す表現で書かれています。「わたしを信じ続けなさい」ということです。

 イエス様がそう言われるのは、御自分の死が何を意味するかを知っているからです。そして、それを弟子たちに繰り返し語り聞かせてきたのでしょう。今こそ弟子たちは、心が騒いで仕方ない弟子たちは、思い起こして信じなくてはならない。ですから「わたしを信じ続けなさい」と言われた主は、御自分の死が何を意味するのかを静かに語り始めるのです。

場所を用意しに行く
 主は弟子たちに言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(2節)。イエス様は死の力に飲み込まれて滅びるのではないのです。主は十字架の向こうに父の家を見ているのです。自分が帰るべきところを見ているのです。今日は読まれませんでしたが、最後の晩餐の場面は次のような言葉で始まるのです。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。

 自分が父の家に帰ることを知っていたイエス様は弟子たちにこう言っておられました。「あなたがたのために場所を用意しに行く」と。そうです、イエス様は場所を用意しにいくのです。それはイエス様が行くところに、弟子たちもまた行くことができるようになるためです。ですから主はさらにこう言われるのです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(3節)。

 そのように父のもとに行くのはイエス様だけではないのです。弟子たちもまた、イエス様のもとに迎えられるのです。父の家に迎えられることになるのです。これが「心を騒がせるな」と言われるイエス様の約束の言葉です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われるイエス様の約束の言葉です。確かに、そう言われるイエス様を信じるならば、信じ続けるのならば、もはや心を騒がせる必要はないはずです。

 イエス様が帰っていく父の家に、私たちもまた迎えられる。これこそ代々の教会もまた信じてきたことでした。しかし、考えてみれば、これは驚くべきことでしょう。罪を犯すことのなかったイエス様と同じところ私たちも迎えられるのです。自らの罪のゆえに滅びるはずであった私たちが、イエス様のおられるところに迎えられるのです。十字架の死に至るまで神に従い通したイエス様と同じところに私たちもいることになるのです。父の家に私たちの場所があるとするならば、それはまことに驚くべきことです。

 だからこそ、イエス様はわざわざ「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2節)と言われたのです。「場所を用意しに行く」のです。つまり用意されるまでは「ない」ということです。はじめから私たちの場所があるのではない、ということです。父なる神のみもとに、私たちの場所があるとするならば、それはイエス様が用意してくださったから場所があるのであって、私たちが何かをしたからではありません。ひとえにイエス様がしてくださったことによるのです。

 イエス様は場所を用意しに行くと言われました。そして、どうされましたか。主は十字架にかかって死なれたのです。言い換えるならば、イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかられることによって、私たちの場所を用意してくださったのです。私たちの罪を代わりに担うことによって、私たちの罪を贖うことによって、私たちが父の家に迎えられるようにしてくださったのです。

道・真理・命
 いや、主は私たちのために場所を用意してくださっただけではありません。キリストはその身をもって十字架にかかり、罪を贖うことによって、私たちの通るべき道ともなってくださったからです。その道は父のもとに行くための道に他なりません。それゆえに主は言われるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)と。

 正しい道であるならば、道から外れない限り、必ず目的地に行きつきます。「父のもとに行く」ための道ならば、最後まで道と共にある限り、必ず父のみもとに行き着くのです。最後まで道と共にあるということ、それは最後までイエスと共にあるということです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。これは「信じ続けなさい」ということだと先ほど申しました。最後まで信じて、従い続けることです。

 そのように、父のみもとへ行くための「道」は、イエスという人格をもった一人の御方なのです。それゆえに、救いに至るために私たちが知らなくてはならない「真理」もまた、単に私たちが理解し把握することのできる、ある特定の教えや思想などではあり得ません。キリスト教という《宗教》ですらありません。それは《何か》ではなく、人格を持った一人の御方なのです。私たちのために道となってくださった、キリスト御自身なのです。それゆえに、主は言われるのです。「(わたしは)真理である」と。

 真理を知るとは、イエスという御方を知ることです。それは「イエスについて知ること」ではありません。「イエスを知ること」です。それは人格的な関係であり交わりです。それは信じることであり、従うことであり、愛することであり、礼拝することです。復活されて天に挙げられたキリストをそのように知ること、そのように共に生きることは、聖霊によって与えられる霊的な出来事です。真理を知ること、イエスを知ること、それは向こうから、天から与えられる現実です。だから私たちは祈り求めるのであり、祈り求め続けるのです。

 そして、「道」であり「真理」である御方は、「わたしは命である」と言われます。かつてイエス様はベタニアのマルタに言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:25-26)。イエス様は父のもとに行くための道です。この御方と最後まで共にあるならば父のもとに至ります。ならば、死んでも生きるのでしょう。それは決して死ぬことはない、ということでもあるのでしょう。その意味でイエス様は復活であり永遠の命です。

 しかし、永遠の命はただ私たちの行き着く先にあるのではありません。「わたしは命である」と主は言われるのです。ならば、イエスという道を歩んでいる時、イエスという真理を知り、真理と共にある時、既に私たちは永遠の命と共にあるのです。永遠の命にあずかっているのです。その命をもってこの地上を生きているのです。ならば私たちは死に向かっている生きている人のように生きてはなりません。私たちはそれぞれ遣わされている場において、この命をもってどのように生きていったらよいのか。それが私たちに与えられている課題です。

(祈り)

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